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自主・平和・民主のための広範な国民連合
『日本の進路』地方議員版7号
 

沖縄のこころを踏みにじった陳情採択  
沖縄県議会議員  伊波洋一


  一坪反戦地主排除の陳情

 3月30日、沖縄県議会で「沖縄県の外郭団体などあらゆる県の機関から『一坪反戦地主など』を役員から排除することを求める陳情」が採択されました。
 その内容は、「『一坪反戦地主』の土地所有の目的は国の政策を妨害するため」であり、「『反戦平和』とは米軍を日本から追い出し、自衛隊をなくして、日本を無防備にしてから民衆に暴動を起こさせ、日本を破滅に陥れようとする考えと同じ」である。したがって、「平和祈念館監修委員、県公文書館役員、県教育委員会などは特に歴史の公正を期する立場から、『一坪反戦地主』のような人物は不適格者である」と、一坪反戦地主を悪い者と決めつけて排除するものでした。
 私はこの陳情について、県議会で反対の意見を述べました。思想信条を理由にして公的な職から排除することは明白な憲法違反です。悲惨な沖縄戦の体験をもとに、戦争に反対し、平和を願う「反戦平和」は”沖縄のこころ”そのものです。一坪反戦地主や反戦地主は沖縄の良心です。私はこのように主張しました。
 残念ながら、26対21の賛成多数で陳情は採択されてしまいました。これに賛成したのは自民党15名、県民の会7名、新進沖縄3名、無所属1名、いわゆる稲嶺与党の保守会派全員でした。
 一坪反戦地主排除の陳情採択について、こんな事までやるのかと、県民の強い反発があります。こちらの新聞の声の欄などには、一坪反戦地主排除に怒る声が毎日のように出ています。それがすぐ選挙に反映されるとはかぎりませんが、間近に県議選がありますから、陳情採択に賛成した与党議員にとっては気がかりなことでしょう。
 このような陳情採択の背景には、知事選で大田さんが破れて稲嶺県政になったこと、小渕内閣のもとで周辺事態法など有事法制化の流れが進んできたことがあります。
 8年間の大田県政のもとで、とりわけ1995年の少女暴行事件以降、反戦平和は県民ぐるみの運動となりました。その大きな流れの中で、米軍もそうですが、県内の右翼的な人たちは肩身のせまい思いを感じていたと思います。その人たちにとって、稲嶺県政の登場や有事法制化の流れは、わが世の春ということであり、自分たちがねらっている日本像の認知が進んでいるという認識になったのでしょう。

 平和祈念資料館の改ざん

 一坪反戦地主排除の陳情に先だって、昨年8月に平和祈念資料館の改ざん問題が表面化しました。
 平和祈念資料館というのは、90年の初めころから大田県政が計画し準備を進めてきたものです。これまでの資料館に代わる新しい平和祈念資料館を平和の礎(いしじ)とセットでつくり、「沖縄のこころ」を伝えていこうというものです。
 平和の礎は95年6月、たくさんの慰霊碑が建ち並ぶ摩文仁の丘公園にオープンしました。平和の礎には沖縄の人だけでなく、本土の方、アメリカや朝鮮・韓国の方など敵味方を問わず、沖縄戦で亡くなったおよそ24万人の方々の名前が刻まれています。その戦争の原因とか、集団自決や従軍慰安婦とか、戦争の諸問題について資料を整理し、展示するのが平和祈念資料館です。平和祈念資料館の建物そのものは昨年6月に完成しました。展示制作契約も2年前に制作業者と締結され、あとは執行するだけという段階でした。
 昨年3月17日に、平和祈念資料館監修委員会がそれまでの作業を総括し、展示内容を最終確認をしました。その資料をもとに、3月23日に稲嶺知事への説明が行われました。その時に、知事がこんな反日的な内容でいいのかとクレームをつけたわけです。大田県政の遺産ともいえるようなものは引き継ぎたくないということなのでしょう。そして、稲嶺県政下で初めて行われた4月1日の人事異動で入れ替わった人たちが、展示内容の改ざん作業に着手しました。
 4月から8月近くまで、密室の中で行われた展示の改ざんは数十ヶ所に及びました。例えば、日本の加害というコーナーをなくす、軍国主義への皇民化教育を薄める、慰安婦マップを常設から外す、あるいは、天皇がマッカーサーに送った「アメリカが沖縄を軍事占領し続けることを希望する」というメッセージの展示をやめる、といったぐあいです。内容を一つ一つ検討して、稲嶺県政にとって気に入らないものを整理しようとしたわけです。7月23日ころに改ざんの結果を見て、もっと直せと指示し、改ざん作業がさらに続けられました。
 8月に改ざんの事実が新聞報道で明らかになり、9月の県議会で大きな問題になりました。私の属する文教厚生委員会が所管なので、2日間にわたって改ざん問題を議論しました。私は一般質問でも5時間くらい県を追及しました。県は当初、そういうことはしていないと一貫して言い張りました。しかし、業者が県に報告した資料が未開封のまま届いていたので、それを議会で開けさせて、改ざんの事実が明らかになりました。県は改ざんの事実を認めて、すべての展示内容を昨年3月17日の時点に戻すと約束しました。こうして半年ほどのロスが出ましたが、今年4月1日に新しい平和祈念資料館がオープンしました。
 その後も、英語訳の部分の不備が新聞で指摘されています。そこには、米軍基地を肯定する視点、日米安保を肯定する視点、日本の加害責任をあいまいにする視点が表れています。歴史認識の違いを稲嶺県政として打ち出したかったのでしょう。
 一坪反戦地主排除の陳情が採択されたのは今年の3月議会ですが、陳情書は昨年の9月21日付となっています。県が平和祈念資料館の改ざんを認めず、突っぱねていたまさにその時に出されていたのです。つまり、この陳情は稲嶺県政の歴史認識、平和祈念資料館の改ざんを後押しして、平和祈念資料館の監修委員の中から一坪反戦地主を排除しようとするものだったのです。

 一坪反戦地主は沖縄の良心

 米軍の占領や強制接収で米軍基地となった土地の返還を求めて契約を拒否していた地主は、復帰の時点で約3000名いました。この人々が反戦地主会を結成しました。
 アメリカは思想信条の自由を認め、基地反対を理由に反戦地主を根絶しようとはしませんでした。しかし、日本政府は公用地法という5年間の時限立法で反戦地主の土地の強制使用を行い、それをさらに5年間延長して、その間に真綿で首を絞めるようにして、反戦地主を切り崩していきました。その結果、米軍用地特措法の適用が始まる1982年には、反戦地主は200名を切るようになりました。
 どんなに強固な精神力を持っている人でも、一人一人で頑張るのは厳しいものです。それを支えるために生まれたのが一坪反戦地主です。反戦地主会会長平安常次さんの土地を譲ってもらい、一人一万円を出して土地を買い、登記して一坪地主になるというものです。有識者や宗教者が先頭に立ち、数多くの県民が参加しました。そして82年12月、一坪反戦地主会が結成されました
 一坪反戦地主会の代表世話人は、元沖縄大学学長の新崎盛暉さん、弁護士の池宮城紀夫さん、三宅俊司さん、金城睦さん、多くの県民から慕われている牧師の平良修さん、教育者の崎原盛秀さんの6名です。全県民の過半数の信任を得た国会議員の照屋寛徳さん、島袋宗康さん、1フィート運動の会の中村文子さんも一坪反戦地主です。一坪反戦地主は沖縄の良心です。
 毛色の変わったところでは、岸本名護市長も一坪反戦地主です。彼が市長になり米軍基地の誘致を認めた時点で、一坪反戦地主会の事務局は退会をすすめたようですが、本人は辞めないといったそうです。そういう意味では、保守革新を問わず沖縄の人々は、一坪反戦地主に対するある種の思い入れを持っています。
 70年代からずっと平和運動にかかわってきた私も、87年頃、一坪反戦地主になりました。宜野湾市職労委員長をやっていたころです。組合員の土地の一部を買い取り、みんなで共有する形で一坪反戦地主になり、自分の具体的な課題として普天間基地返還運動を続けてきました。
 一坪反戦地主会は反戦地主会と共に、米軍用地特措法による強制使用に反対する運動を構築してきました。市町村長の代理署名拒否、そして95年の大田知事の代理署名拒否を支えてきました。一坪反戦地主会の運動がなければ、今日のような米軍基地の返還問題にまで進むことはできなかったと思います。それほど一坪反戦地主会の沖縄における存在は大きいのです。
 一坪反戦地主排除の陳情採択は、一坪反戦地主会の名誉を著しく傷つけ、沖縄のこころを踏みにじる暴挙です。

 米軍基地をなくすことが平和への道

 先日のニュースで、相模原補給廠のPCB問題(6頁参照)がとりあげられていました。日本の側になんの情報も知らせずに、米軍は危険なものを輸送していたわけです。沖縄ではこのようなことが日常的に起きています。戦後55年、復帰後28年、沖縄は米軍基地のもとで、こんな状態がずっと続いてきました。
 95年9月の米兵による少女暴行事件以降、これがいっそう鮮明になりました。米軍基地、日本の安全保障の現実を真正面から見すえると、沖縄県民が提起していることが分かると思います。日本のありようはとても異常で、まるでアメリカのしもべです。
 大田前知事はこのような政府に対抗して、基地のない沖縄を訴えました。政府は大田県政をつぶすため、先の県知事選挙では全力をあげて稲嶺陣営に肩入れしました。知事と政府の対立が沖縄の貧しさや失業問題の原因であるかのように宣伝し、世論を操作して稲嶺知事を支援しました。しかし、そういう無理なことが長続きするとは思えません。右に振れすぎた振り子は戻らざるを得ないのです。
 大田県政が打ち出した基地のない沖縄、それをめざす動きは、必ずもっと大きな流れになると確信します。基地のない沖縄は、朝鮮半島の緊張緩和、韓国の太陽政策などをあと支えし、武力ではなく、交流を通じた信頼関係によって、東アジアの平和を維持するのに貢献します。だから、大田県政の8年間の歩みを大事にし、そのもとで取り組まれた基地に反対する運動をさらに発展させなければならないと思います。
 日米安保は沖縄に基地を押しつけることによって成り立っています。沖縄の米軍基地問題は沖縄だけの問題ではなく、日本全体の問題です。沖縄の人々の土地をむりやり取りあげ、米軍基地として強制使用するための米軍用地特措法改悪が、衆議院でも参議院でも圧倒的多数で可決されましたが、そういうことが沖縄だけでなく日本全体にはね返って来ています。周辺事態法などの有事法制化や憲法改悪の動きへとつながっています。つまり戦争への道です。
 沖縄が提起しているのは、平和への道を歩もうということです。米軍基地をなくしていくことが平和への道なのだということを、国会議員を含めて国民全体がもっと理解してほしいと思います。
                        (談 文責編集部) 日本の進路・地方議員版7号より