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自主・平和・民主のための広範な国民連合
『日本の進路』地方議員版4号
 

地方分権一括法をどう見るか

『日本の進路』地方議員版編集部
 




 今年7月8日、中央省庁改革関連法と同時に、地方分権一括法が成立した。正式名称は「地方分権の推進を図るための関係法律の整備等に関する法律」で、地方自治法など475本の法律が一括して改正された。
 いま、なぜ地方分権なのか。何がどう変わったのか。中央集権システムから住民自治による民主的な地方分権システムへ、転換するのだろうか。自治体の現場では、とまどいや疑問がある。
 地方分権一括法をどう見るか、地域住民の立場から民主的な地方自治の発展を願っているみなさんと一緒に考えたい。


  1.地方自治制度の変遷
 

  (1)戦前の地方制度
 

 日本の近代的な地方制度は、1889年の帝国憲法と並行して準備が進められ、1888年に市制・町村制、1890年に府県制・郡制がしかれて、しだいに整えられていく。そこには、下からの自由民権運動があり、明治政府がそれを弾圧しながら、その要求を吸収して上からの近代化に変えていくという複雑な過程がある。
 その後も資本主義の発展による労働者の増大、近代都市の形成、そして大正デモクラシーが、下から地方制度の改革を迫っていく。資本主義の発展の度合いと深く結びつき、支配と反支配の闘争を反映しながら、戦前の地方制度は変遷をとげていくのであるが、ここではふれない。
 住民自治を求めるさまざまな闘いがあったが、戦前の地方制度は、たとえば府県は国の下部組織、府県知事は国が任命する天皇の官吏というように、基本的に天皇制のもとに国民を支配する中央集権システムであった。
 

  (2)戦後の地方自治改革
 

 敗戦によって、日本の地方制度は大きく変化した。1947年5月3日、日本国憲法と同時に地方自治法が施行され、知事も市町村長も住民の直接選挙で選ばれることになった。条例制定、首長・議員のリコール、議会の解散、監査の請求などについて、住民による直接請求の制度が制定された。国、都道府県、市町村の上下関係はなくなり、対等であることが制度の上で確認された。強大な権限をもっていた内務省は解体され、新しい警察法の制定によって自治体警察が置かれ、市町村公安委員会が管理権を持つこととなった。教育制度も民主化され、公選の教育委員会が設置された。
 このような民主化を推進したのはアメリカ占領軍であった。これに内務省・中央官僚が抵抗するという構図で、両者の力関係を反映しながら地方制度の大きな転換が行われた。だが、今日もそうであるように、アメリカのねらいは民衆の側にたって日本を民主化することではなく、アメリカに対向する日本の支配体制を「民主化」の名でうち砕き、日本をアメリカの覇権体制のもとに包摂することであった。したがって、中国革命の勝利が確実となり、米ソの対立が激化してくると、アメリカは「民主化」から「反共の防波堤」へ対日政策を転換した。日本の中央官僚はこれを歓迎し、対米従属を強めながら、いわゆる「逆コース」の道を歩んでいく。
 1948年には早くも地方自治法に「法律またはこれに基づく政令に特別の定めがあるときはこの限りではない」との但し書きが挿入された。以後、政府・中央省庁は次々と法令を制定し、この但し書きによって機関委任事務を拡大し、指揮監督権を握って自治体を事実上の下部機関にしていった。さらに国庫補助金を拡大して、カネの面からも自治体に対する支配力を強めていった。1954年までに自治体警察は完全に廃止され、教育委員会の公選制も1956年に廃止された。地方制度における戦後の民主的改革は骨抜きにされ、地方自治をタテマエにしながら、中央集権システムが築き上げられた。
 財閥解体で一時は打ちのめされた財界も、対日政策の転換を歓迎し、アメリカの支配のもとに日本資本主義の復活をはかる道を進んだ。限られたヒト、カネ、モノは強力な中央集権システムによって、資本主義の復活・再生のために重点的に投入された。
 1955年の保守合同で誕生した自民党は、中央では財界と結びついてその政治的代弁者となり、地方では補助金行政を通じて、農民、商店主、中小企業家などに政治基盤を築いた。
 たとえばこうである。自治体は政府が配分権を握っている国庫補助金を獲得するため、予算編成時には大挙して上京し、各省庁に陳情しなければならない。特に地元選出の自民党議員への陳情は欠かせない。官僚も政権党の議員の要請には配慮する。こうして「うちの先生のおかげで補助金がついた」となり、自治体の首長や管理職、地方議員、補助事業で利益にあずかる企業や団体は、選挙で「うちの先生」を当選させるために奔走する。
 こうして、自民党、財界、官僚は対米従属の基本路線のもと、互いに癒着を深めながら、地方政治を支配して全国を統治する体制をつくりあげてきた。地方自治とは言っても、その実態は住民の自治ではない。その地域の少数の支配層、ボスたちが「地方自治」を牛耳り、中央政府に依存し、あるいはその出先機関の役割を果たしながら、地域の利益と称して特定の階層の利益をはかっているのである。自治体の現場ではヒトとカネをどこに配分し、誰の利益をはかるのか、陰に陽に闘争が展開されており、「地方政治には保守も革新もない」という一部の主張はこうした現実をおおいかくすものと言えよう。だから自治労が言うように、「地方自治を住民の手に」とりもどす闘いが必要なのである。
 このように、戦後の地方自治改革はアメリカ占領軍がこれを推進し、中央官僚が抵抗するという構図で展開された。対日政策の転換とともに中央官僚によって骨抜きにされたけれども、帝国憲法下の地方制度に比べれば、民主的な地方自治の原則がタテマエとして確立され、住民が闘えば住民自治を拡大できる余地が大きく広がった。
 

  (3)高度成長と住民運動
 

 日本資本主義は朝鮮戦争による特需、国家による全面的な支援によって急速に復活し、輸出を拡大しながら、1950年代後半から高度成長の時代に入っていった。60年代は経済成長率が毎年10%を超え、高度成長は第一次オイルショックの1973年まで続いた。高度成長によって、農村から都市への労働力の移動、第一次産業から第二次・第三次産業への就業人口のシフトが急速に進み、産業構造は大きく変化した。
 急激な工業化は、四日市公害、水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病をはじめとする公害、自然破壊を引き起こした。被害者が立ち上がり、その悲惨な実態が知られるようになると、各地で住民運動が噴出した。1964年から65年にかけて、静岡県の三島・沼津のコンビナート建設では、地域の労働組合、農協、漁協、町内会、医師会など住民各層の諸団体が、四日市公害の二の舞はごめんだと反対運動に立ち上がり、ついにコンビナート建設を中止に追い込んだ。
 東京への一極集中に見られるように、急激な都市の膨張は都市の過密化や生活環境破壊など新たな矛盾を引き起こし、他方で農山村の過疎化・疲弊をもたらした。これも新たな住民運動を噴出させる要因となった。こうして、60年代半ばから住民運動が日本列島全体に野火のように広がった。
 産業構造の変化、都市化の進行とともに住民の政治意識も変化し、農村を重要な基盤の一つとしていた自民党は後退した。政府も自治体も住民意識の変化や住民運動に対処を迫られた。特に、住民生活に直接影響を及ぼす自治体は住民の要求を無視しつづけるわけにはいかなくなった。自治体の中には、中央政府の意向に従わず、法律の範囲を超える「上乗せ、横出し」の条例や指導要綱を定めるところも出てきた。公害防止、老人医療の無料化、情報公開などでは、自治体がまず条例を制定し、それが全国に広がって、政府も後追いで制度化せざるを得なくなった。
 このように産業構造の変化にともなう住民運動の噴出が、下からの地方自治を推進した。国民の中に地方自治は当然の権利だとする認識が広く形成された。住民の権利意識は、今日でも新潟県巻町、岐阜県御嵩町あるいは沖縄県名護市の住民投票など、「地方自治を住民の手に」とりもどす闘いとして、さまざまな形で現れている。
 

  2.なぜ、いま地方分権なのか
 

  (1)国際情勢の激変
 

 1973年のオイルショック以後、日本は低成長の時代に入った。政府は大量の赤字国債を発行し、地方にも負担させて、オイルショック後の不況から大企業を救済した。しかし、低成長下では高度成長時のような税収増は見込めず、中央、地方ともに財政危機に直面した。以降、80年代後半のバブル期を除いて、財政赤字は年々増え続け、行財政改革は避けて通れない政治課題となった。
 世界最大の債務国に転落したアメリカは、1985年のG5(先進5カ国蔵相会議)でドル安政策に転換し、最大の債権国となった日本に貿易不均衡の是正、市場開放を厳しく迫った。以後、円高が急速に進み、日米経済まさつは日を追って激しくなった。政府も財界も経済構造の転換を迫られた。その方針書、アメリカに対する公約が「前川レポート」である。それは、大企業の海外進出を促進し、国内市場をいっそう開放して、国際競争力のない農業などの第一次産業や中小商工業はつぶれるのにまかせる、というものであった。
 こうした経済構造の転換は、農民、商店主、中小企業家などに打撃を与え、自民党の政治基盤をいっそう掘り崩すことになる。自民党の中からは「むしろ旗があがる」との声もあがり、1989年の参議院選挙では社会党が第一党になった。
 1989年、冷戦体制が崩壊して国際政治の構造は大きく変わり、世界経済はグローバル化して大競争の時代が始まった。日本は湾岸戦争で130億ドルの戦費を支出しながら何の発言力もなかったことに、財界はいらだった。そしてバブルの崩壊である。このままでは自民党一党支配が崩れ、財界による政治支配がますます不安定になる。行財政改革で国内コストを引き下げ、海外派兵も含めて国際政治における発言力を強めなければ、大企業といえども激烈な国際競争に打ち勝つことはできない。財界は自民党一党支配に代わる新たな政治支配の体制へ、政治行政システムの改革を迫られた。
 

  (2)財界主導の政治改革
 

 自民党の中曽根は「ウイングを左へのばす」と農村型政党から都市型政党への転換を主張していた。金丸は「自民党も社会党も二つに割ってガラガラポン」の政界再編を主張した。だが、自民党自身が個々の議員の政治生命に影響する政治改革をなしとげるのは容易でない。行財政改革も権益を侵される中央官僚が抵抗する。
 そこで、財界は民間大労組、マスコミ、与野党議員を巻き込んで、1991年12月に政治改革推進協議会(民間政治臨調)の準備会を発足させ、政治改革に乗り出した。会長は国鉄の分割・民営化を推進した住友電工会長、日経連副会長の亀井正夫であった。元日経連会長の鈴木永二を会長とする第3次行革審も1990年10月に発足していた。
 亀井は「政治家に政治改革をやれというのは、泥棒に刑法を改正しろと言うのに等しい」、「政治改革が進まないと行政改革も進まない。行政改革のほうは鈴木永二さんが行政改革推進審議会(第3次行革審)で頑張っておられる。私は政治改革、鈴木さんは行政改革ということで二人三脚で行こうということになっている」(『週刊東洋経済』1992年11月28日号)と述べている。
 佐川汚職に対する国民の憤激も利用しながら、財界の意向をくんだ細川が日本新党を、小沢が新生党を結成して、財界主導の政界再編は一挙に進んだ。自民党の一党支配は終わり、1993年8月に細川連立内閣、94年7月に村山連立内閣が誕生し、中選挙区制の廃止、コメ市場の開放、規制緩和など、自民党単独政権では遅々として進まなかった財界の望む改革が次々に実現していった。
 今回の地方分権は、財界が主導する全面的な政治改革の一環、上からの改革として浮上してきた。
 

  (3)地方分権一括法にいたる経過
 

 1990年10月に発足した第3次行革審は、行革と地方分権が一体のものであり、国際化に対応する国家体制づくりのために地方分権の推進が必要であるとして、91年7月の第1次答申を皮切りに、「国際化対応・国民生活重視の行政改革に関する答申」を次々と行った。これを受けて、衆参両院は93年6月に「地方分権の推進に関する決議」を採択した。第3次行革審は10月の最終答申で、地方分権に関する立法化の推進を求めた。
 94年5月、細川連立内閣は行政改革推進本部を設置し、その中に地方分権部会を置いた。村山連立内閣は12月に「地方分権の推進に関する大綱方針」を閣議決定し、95年5月に地方分権推進法を公布した。
 地方分権推進法によって、7月に諸井虔・日経連副会長を委員長とする地方分権推進委員会が発足した。地方分権推進委員会は中央集権型システムから地方分権型システムへの転換、機関委任事務の廃止などを打ち出して、96年12月から98年11月にかけて5次にわたる勧告を行った。これにそって地方分権一括法案が作成され、今年7月に小渕内閣のもとで地方分権一括法が成立するにいたった。
 この地方分権改革は、地方が立ち上がって勝ち取ったものではなく、財界主導で上から下へと中央集権型で進められたものであり、財界のねらいは住民自治とは別のところにあった。だから、推進委員会と各省庁との折衝が回を重ねるたびに、内容はずるずると後退し、法案に盛り込まれた地方への権限委譲、税財源委譲には見るべきものがなかった。
 

 (4)地方分権のねらい
 

 財界による地方分権のねらいはどこにあるのか。引用が長くなるが、財界やその代弁者たちの発言を見てみよう。

民間政治臨調(1992年12月の提言)

 中央政府主導の下に経済先進国に「追いつき・追い越せ」と猛進してきた日本の近代化は、いまや達成された。そればかりか国際社会に重きをなす国となった。しかしながら近代化過程でつくられた国内の政治・行政構造は、状況に合わせて変革されておらず、このことが中央政府の行動の足かせともなり、国際社会への対応を遅らせている。国内政治・行政構造の分権化こそ、中央政府の国際社会への対応能力を高める手法である。政府は外交・防衛・司法と国土の根幹にかかわる計画調整・予算・立法など限定した行政を受け持ち、それ以外の各省庁の事務事業を都道府県と市町村に移行すべきである。

経済同友会(1993年5月の提言)

 我が国の行政は、法令の明文規定に基づかない行政指導が頻繁に行われ透明性に乏しく、また、民間の個別分野に広範囲に介入している。・・・。その一方、外交、安全保障等、本来行うべき重要な役割を十分に果たしていける状況とは言えない。・・・。中央行政の役割の重点を、国内全般にかかわり且つ市場機能にまかせられないものと、外交や安全保障など、広く世界に目を向けたものに置く一方、道州制の導入の検討を含めて、地方分権を推進する必要がある。

小沢一郎(1993年『日本改造計画』)

 日本はこれまで、欧米に追いつき追い越せを旗印に中央統制的な方法で国を発展させてきた。しかし、大国になったいま、・・・現在のように中央政府がすべてを抱え込み、なおかつ権限の強化をはかるのはそもそも無理である。・・・したがって、国政改革の第一歩は、国民生活に関する分野を思い切って地方に一任することだ。その結果身軽になった中央政府は、強いリーダーシップの下に国家として真剣に取り組むべき問題、たとえば国家の危機管理、基本方針の立案などに全力を傾けて取り組むのである。・・・現行の市町村制に代えて、全国を300ほどの自治体に分割する基礎自治体の構想を提唱したい。・・・将来は、いくつかの県にまたがる州をおくことも考えられよう。

経団連(1994年10月の声明)

 本格的な地方分権を進めるにあたっては、まず行政のあり方そのものを抜本的に見直し、国・地方を通じた簡素で効率的な行政を実現する必要がある。このため、国民・企業の自由な活動を制限している公的規制の廃止・緩和、行政組織のリストラを徹底的に進めるべきである。・・・国は、国家の存立に直接かかわる政策、国内の民間活動や地方自治に関して全国的に統一されていることが望ましい基本ルールの制定、全国的規模・視点で行われることが必要不可欠な施策・事業を重点的に担うこととし、それ以外の行政は地方に移管すべきである。

 彼らの主張は第1に、国際化した大企業が進出先でも安全を保障され、激烈な国際競争にうち勝てるよう、中央の政府・官僚は地方政治のこまごましたことにエネルギーを使うのをやめ、強力なリーダーシップの下に外交や安全保障など国家としての存立に関わる仕事に全力を投入し、国際政治で発言力のある強力な国家をつくれ、ということである。
 第2に、安上がりな政府と地方行政を実現するために、中央の権限や規制を廃止・縮小して、企業の自由な競争や市場機能にまかせよ、ということである。
 第3に、地方行政をいっそう効率的にし、中央の支配が貫徹するように、市町村合併を促進し、都道府県をいくつかの州に統合する道州制をめざせ、ということである。
 強力な国家、安上がりの政府、地方政治の支配、これが財界主導による地方分権のねらいである。中央集権から地方分権へと言うが、それは民主的な地方自治とは似て非なるものである。後述するように、地域住民の生活や安全と深く関わる米軍基地問題では、中央集権が強化された。
 

  3.地方分権一括法でどう変わったか
 

  (1)国庫補助金はどうなったのか
 

 国庫補助金は、配分の基準が法令で定められている地方交付税と異なり、政府・中央省庁の判断で配分され、その使途も細部にわたって干渉、指図される。国庫補助金を配分してもらおうとすれば、自治体(住民)は政府に従わざるを得ず、中央省庁のごきげんを損ねるわけにはいかない。国庫補助金は政府・中央省庁が自治体を支配・統制する最も強力な武器である。
 例えば、海上ヘリポート基地建設の是非を問う名護市の市民投票の告示直前に、政府は1000億円を超える名護市振興策を示し、「振興策は基地受け入れの見返り」と脅かした。名護市民は賢明にもこれを拒否したが、次の市長選挙ではこれがボデーブローとなった。実弾砲撃演習の受け入れ先にされた自治体は、当初の反対表明にもかかわらず、国庫補助金による政府の圧力で屈服させられた。
 国庫補助金はまた、すでに述べたように自民党の政治基盤を維持するための手段ともなってきた。
 だからこそ、自治体が最も望んでいたのは、国庫補助金を廃止し、そのカネを自治体が自由に使える財源として、客観的な基準で自治体に配分することであった。だが、地方分権一括法は国庫補助金の廃止や縮小についてはまったくふれていない。国庫補助金はひきつづき、自治体を支配・統制する武器として残された。カネの問題で変わったのは次の3点だけである。
 第1に、自治体が借金する場合には、これまで国の許可が必要だったのが、協議制に変わったことである。協議が整わなければ民間の銀行から借り入れることもできる。しかし、公的資金からの借り入れは同意が必要で実際には許可制と変わらない。
 第2に、自治体が法定外の目的税や普通税を新設したり変更する場合にも、国の許可が必要だったのが協議制に変わった。しかし、自治相の同意を得なければならない。許可を同意に言葉を変えただけで、実際には何も変わっていない。
 第3に、地方交付税の算定方法について、自治体が意見を言えるようになった。ただし、自治相は「誠実に処理する」だけで、それ以上ではない。
 このように、もっとも肝腎な税財源の委譲は事実上何も進まなかった。
 

  (2)機関委任事務はどうなったか
 

 機関委任事務とは、法令により国の事務を自治体の首長に委任したものである。国の事務だということで、首長は国の下部機関と位置づけられ、大臣の指揮監督下におかれてきた。首長が執行を怠れば、国は執行命令を出したり、首長を裁判にかけたり、あるいは代執行することができた。例えば、大田沖縄県知事が米軍基地用地で拒否した代理署名は機関委任事務で、最後は村山首相が代執行した。
 地方議会は、機関委任事務については議決権を持たず、条例を制定することもできない。その経費を削除したり減額することもでき。ない。機関委任事務は、地方議会や住民の手が届かない聖域だった。
 政府・中央省庁が法律や政令をつくるたびに、都市計画、公害・環境問題、消費者行政など、それまで自治体の事務であったものが、次々に機関委任事務に変えられ、国の強い統制下におかれてきた。機関委任事務は地方自治法別表3、別表4に列挙されているが、その量は膨大で、特に都道府県は事務量の大半が機関委任事務で占められてきた。だから、自治体は機関委任事務を廃止し、国が必要な財源を保障するよう求めてきた。
 地方分権一括法では、国と地方の役割分担が明記された。自治体は「住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割」を担い、国は「国際社会における国家としての存立にかかわる事務、全国的に統一して定めることが望ましい国民の諸活動もしくは地方自治に関する基本的な準則に関する事務、または全国的な規模でもしくは全国的な視点に立って行わなければならない施策及び事業の施策その他の国が本来果たすべき役割」を担うこととなった。
 この役割分担にしたがって、機関委任事務について351の法律を改正し、一部は事務そのものを廃止し、一部は国の直接執行事務とし、その他はすべて自治体が処理する事務とした。そして、自治体が処理する事務の一部は法定受託事務とし、それ以外はこれまでの公共事務や団体委任事務とあわせて自治事務とした。法定受託事務とは「国が本来果たすべき役割」で、実際には機関委任事務の名前を変えただけである。機関委任事務の主要なものは法定受託事務として残された。
 機関委任事務の廃止にともない、機関委任事務についての国の指揮監督権、職務執行命令、取消・停止権は地方自治法から削除された。これによって、国が各種の通達、通知、指示を乱発して自治体を統制・支配することはできなくなった。しかし、その代わりに、法定受託事務については、助言または勧告、資料の提出要求、協議、同意、許可・認可・承認、指示、代執行という形で、国が自治体に関与(干渉)できることになった。
 それだけではない。これまでは国の指揮監督権がなかった自治事務についても、助言または勧告、資料の提出要求、協議、是正要求をできるようになり、国の是正要求があれば自治体は「必要な措置を講じなければならない」と義務づけられた。この点では、国の支配・統制が強化されたと言ってよい。
 自治体が国の関与(干渉)に不服があれば、係争処理委員会に審査を求め、それでも不服ならば裁判所に訴える仕組みもつくられた。ルールが法律に明記されたという意味では、これまでの通達、通知、指示による不透明な仕組みよりはましにしても、国による統制・支配の実態は変わらない。
 機関委任事務の廃止で、これまで条例を制定できなかった機関委任事務について、条例を制定できるようになった。この点は一歩前進と言えよう。ただし、国の安全を害するおそれがあるものは、議会による検閲・検査などの対象外である。
 

 (3)周辺事態法等との関連
 

 「国際社会における国家としての存立にかかわる事務」ということで、地方分権一括法には米軍用地特措法の再改悪が盛り込まれた。周辺事態法や自民党がもくろんでいる有事法制をにらんだものだ。
 一昨年の特措法改悪では、「暫定使用」と称して、国が申請さえしていれば、使用期限が切れたり収用委員会に却下されたりしても米軍用地の使用を継続できるようにした。
 今回の改悪では、機関委任事務となっていた「代理署名」などの権限を首長からとりあげ、国の直接執行事務にあらためた。さらに、国が申し立てれば審理をつくしていなくても収用委員会が「緊急裁決」できるようにし、収用委員会が緊急裁決しなかったり却下したりすれば、首相が土地とりあげや強制使用を「代行裁決」できるようにした。
 大田沖縄県知事や親泊那覇市長などが住民の権利を守るために「代理署名」を拒否して国民の共感を呼び、日米政府をあわてさせた。こんなことは二度と許さないということである。これを適用すれば、周辺事態や有事のときに、米軍のために民間の土地を強制使用することもできる。
 また、自衛隊の防衛出動時における物資の収用などにかかわる知事の事務は、機関委任事務から法定受託事務に変わったにもかかわらず、これまでと同様に防衛庁長官が直接執行できる仕組みが残された。
 地方分権一括法にはこの他にも、水道法、消防法などの改悪をもぐりこませた。自治体が米軍への給水業務、米軍による弾薬・燃料の貯蔵所設置や使用などを拒否した場合、国が知事や市町村長に指示したり、直接命令を出せるようにしたのである。
 

 (4)進まぬ権限委譲と議員定数削減
 

 地方分権一括法に権限委譲が盛り込まれたが、中央官僚の抵抗で改正の対象となった法律はわずか34にすぎない。そのうち国から都道府県へ委譲された権限は「重要流域以外の流域内に存在する民有林に係わる保安林の指定・解除の権限」などほんのわずかで、大部分は都道府県から市町村への権限委譲であった。権限委譲は実質的に進まなかった。
 この他に、必置規制の見直しが盛り込まれた。改正の対象となった法律は38本である。その中には、栄養指導員の必置規制廃止など、職員のリストラや民間委託につながるものが含まれている。
 また、自治体リストラの一環として、議員定数の上限が引き下げられた。東京都特別区、青森市、盛岡市、山形市、福島市、新潟市、松江市、徳島市、松山市、佐賀市、長崎市、大分市などの109区市町村は、議員定数を削減せざるを得なくなった。
 

  (5)市町村合併の促進

 自治体が求めているわけではないのに、財界と中央官僚は一致して市町村合併の促進を盛り込んだ。
 市町村合併特例法を改正し、合併すれば人口が十分でなくても市になりやすくする、合併で議員共済年金の受給資格がなくなる議員にも受給資格を与える、合併後10年間は合併前の地方交付税の合計額を全額保障する、10年間は特別に地方債を財源にできる等の優遇制度を新たに設ける、等々である。
 さらに、中核市(人口30万人以上)になれる要件を緩和し、新たに人口20万人以上の市については特例市という制度を創設した。これらの市は一般市よりも多くの権限を都道府県から委譲される。つまり、権限を委譲される中核市や特例市になりたければ、早く市町村合併をしなさいという誘導策である。
 そして、地方分権一括法の施行は来年の4月1日なのに、市町村合併特例法だけはそれ以前に施行するとしている。
 ゆくゆくは道州制を実現しようと意図の表れである。
 

  4.真の住民自治を進めるために
 

 このように、地方分権一括法はほとんど評価に値しない。少しでも評価できるものがあるとすれば、@タテマエとして機関委任事務が廃止され、国は「地方自治の本旨」を尊重し、自治事務の処理について特に配慮しなければならないと明文化されたこと、A条例制定権が広がったこと、B議員による議案の提出権が定数の8分の1以上から12分の1以上に引き下げられ、議案を提出しやすくなったこと、くらいである。
 ただし、条例制定権は広がったが、指導要綱や規則で大型店の出店を規制したり、環境・公害を規制することはできなくなった。議案提出権も、もともとは1人で議案を提出できたのを、1956年に改悪したもので、いまだ戦後の水準にも達していない。
 全体としては、地方分権はタテマエにすぎず、財源委譲、権限委譲は実質的に進まなかった。機関委任事務の廃止も、法定受託事務に名を変えただけだった。むしろ中央政府の支配が強化された面が少なくない。特に、アメリカに追随しながら軍事面での役割を強化するという点では、地方自治を侵害して対米軍事協力を強制する体制が強化された。また、安上がりの政府をめざして議員定数が削減され、道州制をめざして市町村合併を促進する利益誘導策が法律化された。
 だが、これらは財界や政府・中央官僚の強さの現れではない。すでに述べた内外の情勢に突き動かされ、苦しまぎれに余儀なくされて打った手でもある。中央官僚の抵抗にも見られるように、彼らの内部には矛盾と争いがある。
 それならば、住民の側にたって地方自治を前進させるためには、どうすればよいのか。
 60年代の住民運動が下から地方自治を押し上げたように、大切なことは生活や環境・福祉の問題であれ、平和や外交・安保の問題であれ、地域住民の不安や困難、不満や怒り、その要求を自治体の問題として積極的にとりあげ、住民と共に運動にしていくことであろう。
 地方自治とは、上から「権利を分けてもらう」分権ではない。人権と同様に、国が認めると否とにかかわらず、地域住民が本来もっている権利である。だから、タテマエにすぎなくても、国は「地方自治の本旨」の尊重を言わざるを得なかった。自治体・地方議会には、地域住民の生活と権利を守るために必要ならば、「上乗せ、横出し」条例も含めて、どんな条例でも制定する権利(国に対する)と義務(住民に対する)がある。
 地方議員は、真に民主的な地方自治を推進する力が住民の中にあることを肝に銘じ、地域住民の先頭に立って、「地方自治を住民の手に」とりもどすために闘うことが求められているのではなかろうか。
資料−自治省発表の地方分権一括法概要