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自主・平和・民主のための広範な国民連合
『日本の進路』地方議員版20号(2003年9月発行)

特集/地方議員全国交流会

特別報告
神奈川県平塚市長 大蔵律子

「市民の市長」になりました


 おはようございます。お声をかけてくださり、ありがとうございます。
 私は鹿児島県の出身で、就職した会社の研究所が横浜にあった関係から、平塚に住むようになりました。平塚市民になってから三十八年になります。親類縁者のいない平塚市で四期十六年間、市会議員を務めてまいりました。

 議員さんをまわって愕然とした

 平塚に移り住んでから子供が産まれましたので、食品公害から子どもの命を守りたいと消費者運動をやり、生活協同組合の運動に関わるようになりました。核兵器問題が深刻になってきた時、第一回国連軍縮総会の参加団体に加わらせていただきました。その過程で被爆者の方々と知りあい、広島・長崎の実態を知ってもらいたいと、平塚で「母と子の原爆展」を開催しました。平塚はかつて軍需産業が盛んで、ひどい空襲を受けた町です。再び戦争をバックアップする町にしたくないという思いから、核兵器廃絶平和都市宣言の運動を起こし、短期間で四万三千の署名を集めることができました。
 平塚の議員さんを回って、私たちは愕然としました。「みなさんの純粋な気持ちは分かったが、請願書は誰が書いたの?どういう団体から命令を受けたの?」と行く先々で聞かれたんです。みんなと相談しながら原案を書いたのは私です。誰に指示されたわけではなく、私たち自身が母親として行動を起こしたのです。この議員たちは、平塚の女たちは何もできないと思っているのだろうかと驚きました。
 行動を共にした人たちから、「これでは平塚の町は変わっていかない。住民運動の中から代表を議会へ送り込むしかないね」という声が起こりました。議員活動もみんなでやると申し合わせ、選挙費用もみんなで集めました。たまたま私が候補者に選ばれただけです。推薦人の代表が選挙管理委員会に届け出て、それを大蔵律子が受託する。そんな選挙をやってきました。キャッチコピーは「この町に新しい風を吹かせたい」でした。世の中は男と女が半分だから、議会も半分にしませんかと呼びかけました。議員報酬もみんなで使おうと、平塚で初めて議員の事務所を常設しました。事務所の当番もボランティアが交代でします。みんなが喜んで集まれるように、政治課題だけでなく絵画教室や習字クラブを開き、長く続けていく秘訣も編み出しながら議員活動をやってきました。
 私は非常に恵まれた議員だったと思います。いつまでも一人の人がやっていては、多くの市民の声を持っていくことになりません。私ははじめから三期が限度だ、複数にして四期目は新しい方にバトンタッチすると考えていました。途中で二人になった時もありましたが、四期目は一人になってしまいました。次は必ず新しい人を出そうといろんな取り組みをやり、今回は二十七歳の女性を後継者に決めることができました。私はその選挙作りに一生懸命になりました。

 首長選挙に気軽に挑戦しよう


 平塚市長選は、二期目に無投票で当選した現職市長が三期目の挑戦を表明した後、誰も立候補の名乗りを上げませんでした。二十五万五千人の町で三期目も市長が無投票では、市民力が問われます。そんな恥ずかしい町になってはいけないと私も思っていました。そう思った人たちが「市民の市長を作る会」を立ち上げ、公募で候補者を決めようと動き始めました。私は参加せず、後継者の選挙作りに夢中になっていました。公募の結果は、複数の団体と個人が推薦する大蔵だけでした。会の中心メンバーが、私を口説き落とそうと何度も訪ねてきました。
 私は非常に悩みました。平塚市政がこのままではいけないと切実に思う一方で、仕事も辞めていただいた二十七歳の新人を何としても当選させなければと思っていたからです。現職市長の側も、私が立候補しないように活発に動きました。新人の方にすごいプレッシャーがかかるようになり、「候補者になりたくない」と一カ月も引きこもる状況もありました。私が選挙に出れば無責任なことになると思いました。
 ところが、私をフリーにしようと、新人の選挙をどんどん作り上げていく人たちが出てきました。最後の決め手は、「あなたが出なかったら、無投票で市長になる人に手を貸した最後の一人になるのよ」という言葉でした。悶々としている私を傍らで見ていた連れ合いが、「決心する時が来たんじゃないか」と言った時、この人は協力しようと思っている、私は出てもいいんだと感じました。マスコミは待っていたかのように、出馬表明する前から何回も取材に来ました。市民にインパクトを与える記事でした。今になって思えば、「市民の市長を作る会」の人たちが、私が出ざるを得ないような仕掛けをつくり、私はあの人たちの手のひらの上で動かされていたのかもしれません。るんるん気分で選挙に入っていくことができたのも、お膳立てがしっかりできていたからです。
 選挙を担う人たちは「変えよう、変えます、市民の会」をつくり、政治団体に登録しました。この名前は、閉塞感を破り平塚をさわやかな風が吹く町に変えたい、市民の声がトップに届く風通しのよい行政に変えたい、町の将来にかかわる合併問題をトップ独断で決める市政を変えたい、という思いからでした。合併問題は、昨年元日のテレビで、市長が湘南市合併構想の研究会を立ち上げたと知らされました。議会が報告を受けたのは十日後でした。市民には市長が独裁的に見え、議会軽視だ、市民をどう考えているのか、という声も出てきました。
 私は「湘南市合併構想の見直し」「ガラス張りの市政運営」「市民とパートナーシップの市政」に、「自然と共生する町」を加えました。私は毎月、子どもやお父さん、お母さんと一緒に里山の自然を守る活動を続けてきました。平塚は都会では珍しく、オオタカ、サシバ、ノスリという三つのタカが一緒に住んでいる町なんです。そういう生態系が守られる町は、市民にとっても住みやすい町になるはずです。だから、都市経営や都市開発は自然保護ぬきに考えてはいけないと思っていました。この四つをメインに選挙運動を戦っていくことになりました。
 市長選挙は、ボランティアとカンパで、この町を変えたいと思う人なら誰でも参加できる運動にしたいと思いました。だから、推薦団体はありません。そのかわり、「変えよう、変えます、市民の会」ニュースを十号まで発行しました。市民たちが何を変えたいと考えて市長選を戦うのか、思いを伝えたいわけです。市民なりに勉強して平塚の財政を書いたり、工業専用地域にパチンコ店を許可したのはおかしいと書いたりしました。今日もご参加の静岡市の佐野さんから電話で聞いたり資料を送っていただいて、静岡・清水の合併を例に、湘南市合併に問題があることを書いたこともありました。
 市長選挙は議員選挙よりも楽だと思いました。議員選挙はたくさんの方が出ますから、そこで勝ち残るには票固めが大変です。市長選挙となると十六万人の有権者ですから、票読みなんてやれません。思いを伝えて共感する人を増やすしかないんです。私は紹介された方がいれば、自分の思いを伝えようと走り回りました。消費者運動でいつもやってきたことです。みなさんも首長選挙に気軽に挑戦し、トップの座を争ってください。それが日本の政治を足元から変えていくことになると思います。
 有事法制やイラク派兵問題など、国民の不満がくすぶっています。イラク派兵は賛成よりも反対の人の方が多いのに、国会は決めちゃうわけです。政治に対して厳しい目をもつ人たちが増えていかないと、国の政治を変えることはできないと思います。そのきっかけを作るのは、地道に地域で活動している議員や首長ではないかと思います。

 公約どおり湘南市合併は中止

 市長になり、六月の初議会を迎えました。私は根回しを受けた経験もないし、市長としても根回しという手法をとりませんでした。議員さんは所信表明を聞き、議案書を見て初めて、何が提案されたのかを知ったと思います。初議会ですから、本格的な政策を提案したわけではないのですが、ことごとく反対されました。もしかしたら、これまではあらかじめ提案される内容を知っていて、これを聞いてくれれば通すというやり方だったのかもしれません。
 どんなことで反対されたかというと、まず市長専用車です。前市長は一千万円の高級車を使っていましたが、私はそんな車は使いませんと公約に掲げました。初登庁の日、さっそく秘書課長が来て、「あの公用車は売却の指示を出しました」と言うわけです。市長の言葉とはそんなに重いのかと思いました。指名競争入札では、百七十四万円でしか売れませんでした。決算で百七十四万円の雑収入とすればいいことなので、議案に出していませんが、議会では「なぜ売ったのか、乗りたくなければ他の三役に使わせればいいじゃないか」と追及されました。私が乗りたくないと言ったのは、市民の目線で政治は考えなくてはいけないと思ったからです。
 新聞の投稿欄にエールがたくさん載りました。「平塚市長は市民の目線で政治をやりたいからと、高級車を売却しました。自分の町の市長が高級車に乗っていないか、チェックしましょう」というのまでありました。私のところには、新聞の切り抜きと一緒に「この切り抜きを議会の各会派や関係者に送りました。参考のために市長にも送ります」という手紙がきました。メールもたくさん来るようになりました。賛否両論ありますが、エールの方が圧倒的です。「議会でやっつけられてしょげているのではないか。あなたには投票した五万八千人の市民がついているのだから元気を出してください」と来るんです。説明責任を果たすのは私の公約でしたし、議会で質問して下されば下さるほど、それに応えて私の思いを伝えることができます。評価はテレビを見ている市民や傍聴に来ている市民がするはずです。だから、私は全然しょげていないのですが、新聞だけ読んで心配して下さる方もいました。
 市長の月額報酬を五割カットするというのも、クレームがつきました。「報酬審議会にもはからず、勝手に決めるんじゃない」と、いろんな批判がありました。とりあえず、五割カットの分を預金積立にすることにしました。資産公開の時に積立預金が増えていると報告できます。議会には改めて提案します。認めてくれなかったら、日本でごちゃごちゃ言われるなら、フィリピンの貧しい人たちの運動に資金カンパしようかとも思っています。
 湘南市合併構想は、最初は見直すと言ったんですが、選挙戦の最後には反対すると言いました。市民との対話で、私に寄せられている声が反対だとキャッチしたからです。合併そのものに反対とは言わず、湘南市合併に反対という言い方をしてきました。五月九日に三市三町の首長が集まる研究会がセットされていました。前任者の平塚市長が会長でしたから、「初めて出てきた者が会長を務めるよりも、交代で司会をしませんか。できれば副会長でやってこられた方にお願いしたい」と申しあげました。自由に発言できる位置を確保したかったからです。自由に発言できることになり、「湘南市合併研究は終わりにすべきだと思います」と率直に言わせていただきました。さすがに非常に厳しい視線を感じました。結局、五月二十六日の研究会で、全員の合意で「湘南市合併研究会は終わりにします」という結論を出しました。
 今も、湘南市を実現したい方から、厳しいご意見をたくさんいただいていますが、一般市民からはありません。国は合併しなかったところにも、指導を強化したいと考えているようですが、公約どおり湘南市合併の中止を実現することができました。これからの町づくりは市民と共に考えていくことを提起し、あちこちで対話集会を開くことを計画しています。
 雑ぱくな話になりましたが、これで終わらせていただきます。ありがとうございました。(文責・編集部)