国民連合とは月刊「日本の進路」地方議員版討論の広場集会案内出版物案内トップ


21世紀の自治体と国

元気な日本を作るための基本戦略
国と地方自治体の役割分担

秋田県山内村長 藤原 清

山内村のホームページ


はじめに

今、国や県では市町村合併を強力に進めているが、景気の回復が見えない、先行き不透明なときであり、また政治面ではあれだけ期待され圧倒的な支持率を誇った小泉政権も支持率が50%を割る事態の中で、かつ構造改革がなかなか進まない現在の状況下で、合併だけを先行して半強制的に押し進めるのは大いに問題があり、まして地方分権が道半ばのこれから『地方の時代』が来るかもしれないと淡い期待を持った国民の気持ちを踏み躙ることである。
 財政悪化に始まった今回の合併論議は、数値目標と地方交付税の見直し、地方自治体の合併による大幅な経費削減を掲げ、無駄な自治体組織の効率化と簡略化を大きな目標にしていることは大変良いことであるが、合併促進の手法と考え方には大いに問題があるし、このまま合併が進むようなら中央の地方支配、中央集権はますます強力なものになり、国民不在と自治意識が欠如した地方自治体が出現するであろうことは想像するに余りある。まして仮に全国一律の合併がなされたとするなら日本の国から町や村の名前が無くなり市だけになったとしたらどんな感じだろうか。
 地方自治体はこれまで強力な国主導と官僚指導のもとに自治体経営を余儀なくされてきました。高度経済成長の時代に税収のほとんどを国が持って、その6割を地方に還元するシステムと公共事業の一翼を地方に担わせて、自治体の予算規模が大きくなり、それにより人件費や間接経費も肥大化してきた地方自治体の今の姿は牛舎の中でただ餌だけを食べさせられて肥育されている牛のようでもある。
 御用がなくなればお役ごめんの切捨ての考え方で進めている今の合併の方法はいかがなものか。住民がいて村・町・市があり、地方がある。その集合体が県や国であるはずです。明治時代の半ばに7万余りあった自治体数が明治の後半、大正時代そして昭和の大合併に至って今の3千あまりの自治体数になった経緯を考えるといろんな問題をも引き起こしたことも事実である。しかしながら今の合併論議はその時の反省を一顧だにしておらず、ただひたすら国主導の下に数値目標を達成せんがために、一方で財政面での締め付けとまた一方では支援という両刃の剣で地方自治体を追い込むやり方には酷いという表現しか見当たらない。
 『人間万事塞翁が馬』という中国の故事にあるように、人はその生涯を山と谷に上り下りしながら全うするのですが、故意さえ働かさなければ政治。経済・社会・農業、工業、金融、証券、建設も全て『山と谷』が自然の摂理である。
 ただその規模は財政、事業、人事全てに於いて身の丈に合うようにしていなければならない。地方自治体には改善すべき部分が多々あります。高度経済成長時代に合わせた職員数や職種、事業など無駄な経費をかけているのも多々見られるし、何でも全て行政がやらなければならないとするこれまでの考え方から行政がすべきことを取捨選択をし、切るべきところは切っていき、スリム化を図らなければならないと考える。

1.バブル後
 バブル経済の崩壊からすでに十数年が過ぎ、この間日本の経済はデフレスパイラルに悩まされ、政治、産業、社会、労働(雇用)、IT、科学技術など国内のあらゆる分野にその影響が現れており、ここでは特に国や自治体を取り巻く財政状況を考えてみたい。長期にわたる税収不足からの財政悪化が特に今回の合併を強力に促進するきっかけになっているが、そもそもバブルが何故起こり、何故はじけたのか。
 バブルの発生は高度経済成長の金余りと奢りが土地などの不動産はじめ証券市場に莫大な投資がされていくのを国は漫然と見ていただけであった。見ていただけでなく住専が土地を買いあさるのを陰で援助してもいた。さらには一部の上場企業が世界中の絵画やビルを買いあさる行為に対しても歯止めをかけるべき行動もせずに静観視するだけであった。
 バブルの終焉はそのようなマネーゲームの異常な土地騰貴に対して、旧大蔵省による総量規制が引き金になった。不動産価格は十分の一に下落し、株価は一時36,000円にまで高騰したのが三分の一にまで落ち込み、戦後最悪の企業倒産の始まりを到来させたのである。そしてバブル後の後始末の悪さが長期不況に輪を懸けてしまったのである。すなわち不良債権を多く抱えた金融機関を救済するために返済のあてのない公的資金を限りなくつぎ込み、さらに大手ゼネコンには金融機関を通じて債務免除を実行させ、またさらには株価維持に莫大なお金をつぎ込んだことである。まさにどぶに金を捨てた結果になったのである。
 バブル崩壊直後に国の長期債務残高が200兆円程度が、10年後の平成13年には500兆円を超し地方の債務残高を合計すると660兆円というが、これすら正確な数字ではないという。なぜなら隠れ借金がまだあるし、また特別会計の杜撰さを指摘する人もいる。
 このような背景が現在の財政の悪化を招き、さらにはデフレスパイラルに陥っている図式である。しかしながら国では不況から脱出すべく公共事業を地方をも巻き込み、膨大な金額ペースで発注し続けたのである。「入るを計って出づるを制する」の財政の心構えを無視した結果が今の姿である。
 
2.国の失政を地方に転嫁
 地方分権といいながら実態は相も変らぬ国主導であることは明白である。合併論なんかを見ていると一目瞭然で、国や県が選択は自治体自身ですることである、といいながら合併促進のパンフレットなどの文面は選択の余地が無いように書かれているのだから世話がない。
 地方は独自財源が少なく、自主財源も人口減と少子高齢化、産業の衰退など自前では自治体を維持するには財源不足からも無理であるため、財源の多くを国の地方交付税と補助金に頼らざるを得ない立場であった。ゆえに地方は国主導の下に自治体運営をしてきたし、また地方もそのほうが楽だったともいえるかもしれない。人は一度楽な道に入ると茨の道へは向きにくくなるのが人情であるから。
 しかしながら財政の悪化は前段申し上げたとおり地方自治体のみが無駄遣いしたわけでなく、国の政策と並行して行われたわけであり、ましてバブル後の財政悪化の大きな原因は国の失政にあるわけですから地方にだけ責任を押し付ける合併には無理がある。

 竹下元首相の「司、司に任せればよい」の言に代表される官僚任せの発想こそ、指導者としての政治家の任務を放棄したものとして、歴史の中で記憶さるべきものです。
また
「私はバブル経済発生の前後、何年か政府にいて適切に対処できなかったことを今でも反省している、申し訳なく思っている」、
「円高不況は経験したことが無い幅と大きさで、当時、日本経済を襲った。政府は補正予算を組み、しばしばドル買の市場介入をしたが、これが後に過剰流動性の原因になった」、
「やがて、株や不動産への投資に向かうことは分かっていたのだから、ある段階で88年、89年には政府はマネーサプライ(通貨供給)を質量ともに抑えるべきだった。今から考えると誠に反省すべきことが多い。申し訳なく思っている」
98年の国会での宮沢大蔵大臣(当時)の陳謝の青葉です。
(平野拓也著「税金の常識・非常識」ちくま新書)から

 一例を掲載させていただきましたが、国の失政が財政悪化の原因であったわけだから、その責任を謝るだけでは済むものではないし、また地方にばかり一翼を担わせることでないと考えるものである。国・政府のしっかりした、今後100年後の日本をにらんだ政策を練って、実施することが最重要なのである。
 過去に地方は、農業農家は減反政策はじめ、自民党の票田として、黙って言いなりになってきたんです。言いなりになって来た結果がこの有様です。農家が農業だけで生活できないのがその結果では、何のために、誰のためにこれまで頑張ってきたか分からない。この責任を誰も取らず、今また合併妥当と言う、合併が成り立ったとして、もし失敗したなら誰が責任を取るんでしょうか。いつものように住民が馬鹿を見るしかないのか。
 米が高いというが果たしてそうだろうか。

3.地方分権から地方主権へ中央集権・中央志向からの脱却
 合併しなければ自治体として立ち行かなくなる、また平成17年3月までの特例法が切れないうちに結論を出さなければ大変なことになる、というが、地方自治体は法律で保障された団体であり、国や県はいかなる場合であっても立ち行かなくならないようにする義務と責務がある。法律で保障された基礎自治体であるにもかかわらず交付税を削減するとか、合併するあるいは合併した市町村にだけ財政面で特例優遇措置をするというのでは法律の根幹を国自体が揺るがすものである。法律が何のために誰のために制定されているのか、国民・住民をないがしろにする傾向でもあり、さらに国民の法の遵守義務を放棄させる事にもなりかねない重要な部分である。一方的で上意下達的な手法は民主社会に逆行する、時代錯誤しているのではとしか言いようがない。
 また、仮に合併が成立した都市、広域市町村(市)が誕生したときに、その後に住民がこんなはずではなかった場合に責任を誰が取るのか、またさらに、合併は失敗であるから、うまくなかったからといって引き返すことが出来るのか。バブルの責任を結局は誰もとらなかったように、最終的には国民にその付けが全部回ってくるのですが、うやむやにされるのがこれまでの国のやり方である。
 仮に日本中が合併したとするなら、地方からの人口流出に拍車がかかり、過疎が限りなく進み、国内の空洞化と地方の空洞化が予想を越えた形で現出することが考えられる。
 今、国が政策として最優先して実施しなければならないことは、国と地方がそれぞれ自立することである。地方が自立するためには、農林業が農業、林業それだけで生活できるようにすることである。戦後復興期は工業を優先し、先進国に「追いつけ、追い越せ」のムードの中では国主導の官僚政治が功を奏したことは否めないが、バブル以前の安定した経済状態から今後の日本の姿を考えるに、工業と農林業の均衡ある発展である。
 先進国の中で食料自給率が40パーセントを切るような国は日本だけである。それはいかに国内の農林業を犠牲にしてきたかを物語っている。また地方から都市都への人口流出にも現れており、日本の将来と景気回復を考える上で重要なことは一次産業へ雇用を戻すことである。そのことが地方から都市部への人口流出に歯止めをかけ、都市と地方の均衡ある経済発展を促し、日本が元気を取り戻す抜本的な改革案である。
 地方の活力をもっと引き出すことを考えるとまだまだ地方には良いものがある。地方が元気にならなければ財政が苦しいからといって、単純に合併だけでは根本的な解決にはならない。自主自立をと言いながら、器を大きくしても中身が濃くなるわけではない、むしろ中身は余計薄くなってしまうことを認識しなければならない。財政支援はすべきではない、決して良い結果には結びつかない。財政支援をして合併を進めるならこれまでと同じで地方の中央依存体質は変わりません。行政主導を止めるべきです。
 東北六県で特に秋田県が人口減少が一番多いのか、私が考えるに行政主導と行政介入が多いのが秋田県であり、住民は行政に介入され、規制を嫌う傾向がありますが、そこのところが分かっていないのではないかと思います。

4.縦割り行政の弊害
 国の縦割り行政が地方のわれわれの小さな自治体にまで影響を及ぼしており、行財政改革を断行するための大きな障害となっている。行政コストを下げるための政策を努力目標でなく、随時実施に移していくために取り組むのですが、職員の意識が縦割りの洗脳を受けていることと、自分の部署の職務を守ろうという意識が強いことなど、その弊害がこの小さな自治体の心の奥底まで沁みている。
 私が今回の合併論で懸念するのは国の縦割り行政の中で、総務省(旧自治省)が小泉構造改革を進める上で各省庁に割り当てられたノルマの一環として地方自治体の合併を取り上げたのではないかというのがひとつ。
 また、他省との関係の中で、省庁間の縄張り争いは皆さんご承知のとおりであるが、縄張りの中で他省庁に見せる業績として地方自治体の合併を取り上げたのではないかという疑念がある。
 われわれ地方自治体にとっても国民にとっても縦割り行政は「百害あって一利なし」で、早急に解消してほしいのですが国自身にその気がなければ実行されるわけもない。しかしこの縄張り争いでどれほど国民が損をしているかを例を上げて説明したい。
 たとえばスクールバス。当村は今年度統合保育所の建築に着工するのですが、完成の暁に園児の送迎を住民と約束しているため送迎バスが必要であります。その費用を節約しようとスクールバスを園児の送迎に兼用したいのですが、スクールバスは文部科学省の補助を使っているため厚生省管轄である保育所の園児の送迎には使用できないという。そのためにまともには1千万近くのバスを2台購入しなければならない事になってしまうのである。
 また、わが村は生活道路が整備されていないところがまだ数箇所あるわけですが、これは国土交通省管轄の補助であるが、今さし当たって急ぐ必要のない林道を農林水産省の補助で現在建設中です。これなど縦割りがなければ生活道路のほうへ予算付けしてもらえば大変ありがたいし、不便さのあまり地域から流出していく村民を踏みとどまってもらえるのである。
 私が行政に入って強く感じたことのひとつに、人事の効率の悪さであります。どうして忙しい部署に比較的手のすいた部署の職員が手伝うことをしないのかです。縦割りの弊害のひとつでありますが、これは役場のシステムを変えれば解決できるかなと考えています。
 いずれ効率の良い、スリムで行政コストを下げるためには縦割り行政は順次改正しなければならないのですが、自治体自身で改正できる部分は直していくが、国の補助の関係はどうしてもネックになってしまうのである。
 
5.国民、住民の意織改革
 国におんぶに抱っこ、もたれあいの構図の解消も重要な部分である。これまで日本の行政組織は先にも述べたように、国から交付金や補助金を助成してもらって自治体を運営している実態であるが、それが長期にわたってきたために自治意識の欠如が垣間見られるのは周知のごとくである。
 本来自治は自己決定と自己責任が基本であるが、そもそも日本の民主主義そのものが敗戦によって与えられたものであったからなのか、民主主義が根を張っていない状態のままに21世紀を迎えてしまったのである。
 国や県が何とかしてくれるだろうという甘えたい式のままに長期にわたり自治体が成り立ってきたいきさつがあるため、今早急に変えようとしても無理があることは承知ですが、しかし、いつまでもそれでいい訳ではない、どこかで意織の切り替えをしなければ国も地方もそこなし沼にはまり込んで出るに出られなくなる。
 悪習慣はそれを解消するためのプログラムを組み、システムを変えて実施していかなければならない。今の状態で合併を推し進めても地方が自立するような方向には向かないし、むしろ中央集権がますます強くなり、地方は国依存の体質に拍車がかかっていくと考えられる。今の小さな状態の自治体のうちに自主自立に向けた政策と予算をそれぞれの自治体に実施させ、自己責任で自己決定できる体力を育て上げることこそが大事と思います。
 地方交付税を段階的に減らし、国を頼る体質から脱却するために同時並行して自主財源が得られる環境作りを国は政策として実行しなければなりません。それは先に述べた食料の自給率を高めるための政策であります。今の日本の不況は工業と農林業の不均衡がもたらした構造的な不況でもある。無論大きな原因はバブルからの不況ではあるが、この不況を脱するための糸口は過去日本が好景気に浮かれて見過ごしてきた構造改革に着手することである。
 住民がいて県民・国民がいる。そこに基礎的な自治体である村・県・国が存在するのである。決して国が先に存在するのではないし、まして政府があるのではないのです。小さな家族単位の族組織が村組織を形作って、時代を経て運用上約束事を互いに守るために決まりを作り、行政組織を形成したのである。必要が行政の母体になってきたのであるから、必要以上のことは住民も望まないようにしなければならないし、行政もやることはない。
 
「私は米国人なり。私の信条」
  私は凡人ならぬ。非凡たるは私の権利なり。
  私はチャンスを求むるも、安定は求めぬ。
  国家に庇護される卑しき市民にはならぬ。
  ユートピアの保障された安穏より、人生のチャレンジを好む。
  米国という国は地方に何かがある。地方に面白いものがある。
   浅井信雄 著“アメリカ50州を読む”から

 日本も地方に本物の技術があります。面白いものがたくさんあります。画一化された中央の、天下りでがんじがらめの状態のシステムと規制の中では人の能力は発揮されません。地方を面白くしなければこの国の再生はないと断言しても良い。
 
6.全国一律、画一的な行政
 横並びの行政からの脱却も大変重要な部分である。「均衡ある国土の発展」が如何に日本の国をいびつにしてきたかを国は考えて欲しい。学校教育をはじめとする教育行政、高速道路はじめとする道路行政、国は何故に日本中を同一、同等に発展させなければいけないのか、同一、同等にすることそのものが結果として不平等でいびつな社会をつくりあげ、地方の魅力をなくしてしまったのです。
 公共事業のあり方もそのひとつである。補助金で実施する公共事業は発注価格が国の設計基準があるために、地方の実情にあった設計が出来ないのである。高コストの公共事業がはびこり、喜ぶのは建設業者だけであり、地方自治体は交付税で戻らない、自己負担分の大部分、大げさな言い方をするならひとつの公共事業そのものが補助金がなくても、自治体の負担分で出来るものもあるのです。
 金額ベースで同一にする必要はない。地方によってかかる経費、費用はまちまちであるし、またそうでなければおかしい。都市と田舎では生活費用が同じでないように、行政コストも建設コスト、教育コスト、すべてそれぞれが同じ費用がかかるわけではない。もっとメリハリのある、弾力的な考えで、自主裁量権を地方に与えるべきです。任せるべきは任せる。補助事業で安く出来た場合は努力報酬として自由に使える財源にしてくれたらよい。会計監査で過剰設計だとか、国に変換させることをしないでもよいとすればもっと効率的な仕事が出来る。
 日本全国画一的な公共事業で景気を浮揚しようとする国の考え方はただ単に国と地方の財政を圧迫し、建設業界の談合をはびこらせ、競争力をますますなくすだけである。さらに魅力ある地方の伝統文化を失わせていき、国中のどこにも同じ建物、施設、人間が出現するだけである。
 公共事業の恒常的な景気維持や向上を解消し、民間活力が常に先行する社会システムの構築を国は何より優先して実行しなければ、先進国とは名ばかりの、途上国の東南アジアの諸国にも抜かれる日も遠からずやってきます。
 合併は日本の国の画一性を増長し、地方がなくなり、都市文化だけがはびこっていく官僚文化国家となることでありましょう。
 
7.アメとムチ
 国では平成17年3月まで合併した場合の合併市町村に対して支援特例債など諸々の恩典を与えているが、これがアメの部分である。また合併に乗り気でない市町村に対しては交付金の削減をちらつかせて、合併を押し付けようとしているが、これがムチの部分である。しかしアメを一回でもなめてしまった場合にはどこまでもアメをなめ続けなければならないような状態になってしまうことは、たとえば補助金というアメで農業がだめになってしまったことや、バブルが破綻したときに公的資金を注入された上場企業の実態を見れば明らかで、その後常に国・政府の言いなりの状態に置かれてしまっている。すなわち農業は常に減反と食管制度の維持を押し付けられ、食管制度はとことん追い込まれた農家の抵抗にあい、また時代の流れが幸いし最後は崩れてしまった経緯がある。そして公的資金を注入された上場企業各社はその後不良債権がなくなったかといえば、むしろ増えるかこそ減ることはなく、自立の目途が立たないでいるか、不良債権が減らなかった企業は合併させられている。
 えさに食いついて陸に上がった魚は自ら生きていく権利を放棄したものである。常に注意深くわなにかからないように用心していなければこのような世の中であるから、何が災いするか分からないのです。国の言うことだから間違いないと思うのは早計で、むしろ間違いが多いのが国の政策だと思ったほうが正しい選択である。
 第一、合併が本当に正しい道であるなら、住民のためになるのならアメもムチも要らないのです。何故アメを使わなければいけないのか、この財政難のときにそこまでして合併を推し進める本意は何なのか理解できない。まして民主主義の社会でムチまでを用意して合併させようとする意図がさらに理解の範疇を超えてしまう。
 大きなビル街が林立する中を人々が忙しく行き交う都市があり、小さな野山に囲まれた村があり、自然や田園が心和ませる町の風景があって、それぞれの土地にそれぞれの祭りがあり、神社仏閣があって、文化や生活習慣を形成し、日本の国を支えてきたのです。
 どこに住むか、どこで生涯を終えるのか、それは人によって選択が様々でありましょう。だから人生色々、「楽あれば苦あり」で面白いことが起こりうるのです。アメとムチに強制されることなく、選ぶのはあなたです。

8.一つだけの選択
 選択肢がひとつしかないというのは選択とはいえない。選択というのは複数以上の中からどれか一つを選ぶことをいうので、事実上は一つだけしかないというのは選択ではなく、強制というしかない。
 「添わぬうちが花」「聞いて極楽、見て地獄」ということもありますし、「国の言うことを聞いて成功したためしがない」というのが本田総一郎の言葉ですが、正にその通りで、過去に養豚、養鶏、肥育牛など農業政策をみてもひとつだけの選択肢しかない政策はことごとく失敗の憂き目を見ている。農協の合併を見ても、生保、金融関連の合併を見てもほとんどがうまくいっていない。まして選択の余地を与えない今回の合併推進は国・官僚の奢りとしか言いようがないのである。
 住民が特に忌み嫌うのは役人気質と行政のおごりである。多様化の時代であってみればなおのこと、住民の選択肢はそれなりに用意されていなければならない。
 民主主義の根本は住民が望むことを実現するために行政が存在するのだということを国はもっと真剣に捉えていなければならないのです。
 フリー、フェアー、グローバルの時代感覚から逆に遠ざかっているのが今の国の姿である。国民は何をさておいて自由な立場で物を考え、公明で公正な行政を望み、国境を越えた世界の中で活躍できる日本人を一人でも多く輩出したいと願っているし、応援したいと思っています。外務省の不可解な行動と思考には諦めとまたかという戸惑いと怒りを感じているが、多くの政府の不正に対して免疫が出来て、多少のことには驚かなくなっている。
 この国には量的な目標と時代錯誤を許さない、ゆとりのない社会習慣がはびこってしまっている。量的な目標という点では、国としての目標が掲げられていない。経済目標、政治的な目標、文化目標、産業目標などそれぞれの分野での目標が何もないため、国民自体、目標のないさまよえる民のような存在である。
 目標が何もないのが今の日本の国の特徴なのかもしれない。
 
9.一票の格差
 一票の格差是正が良く国政選挙で話題に上がるが、しからば投票率はどうなのかを問いたい。地方であればあるほど、田舎ほど投票率はよい。秋田県の場合、特に市町村長選などはほぼ90%を超す投票率であるのに、都市部はどうだろうか、50%を越すのがどのくらいあるか。常識で考えても有権者の過半数を得てこそ信任されたといえるのではないか。それが投票率自体、50%を割り30%台という中で選ばれた首長が果たして選挙で信任されたといえるのか。
 投票率が50%を割る選挙は無効にしなければならない。50%以上の住民が拒否しているのだから選挙そのものが有効にはなりえない。また誰がやっても一緒だから首長はいらないとのメッセージですから、そのような都市部はじめ低投票率の自治体の場合は地区から互選で自治運営委員を選んで市町村運営をしてもらうとよい。自治の真の自主運営である。
 また国政選挙の場合は無効にするしかない。たとえば投票率が50%を割り、立候補者が3人で、接戦の場合は立候補者一人当たりの得票率は15〜6%でしかない。50万人の年で75,000〜80,000人からしか信任されなかった人に国政を委ねられるだろうか。
 一票の格差是正をするのであれば投票率の格差是正も議論しなければならない、むしろ投票率の格差是正のほうがはるかに重要であると考えられる。なぜなら信任を拒否しているのだから。国政を担う方々によく吟味していただきたい。