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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2007年8月号

日豪EPAと日本の食料・農業

東京大学教授  鈴木 宣弘


 日豪EPAは
 日本農業に深刻な打撃


 現在、日本はオーストラリア(豪州)とEPA交渉を行っています。EPA(経済連携協定)とは、関税や数量制限など貿易における国境措置をお互いに撤廃するFTA(自由貿易協定)に加えて、投資、知的財産権、政府調達、競争政策などでも国境措置を撤廃しようという協定です。この協定が実現すれば、輸出産業は相手国に自由に輸出できますし、大企業は国内と同じように相手国に自由に投資して利益をあげることができます。しかし、競争力の弱い相手国の産業や中小企業などは、自由競争に敗れ、たちゆかなくなることになります。
 日豪EPA交渉で最大の焦点になっているのは、牛肉、乳製品、コメ、小麦、砂糖の関税撤廃です。これら重要品目の関税が撤廃されて、安い牛肉、乳製品、コメ、小麦、砂糖が日本に入ってくれば、国内の生産農家はこれに太刀打ちできず、農業をやっていけなくなります。
 圧倒的な価格差と高品質との競争で、国産の麦と砂糖はほぼ消滅します。農林水産省は、国産乳牛雄の生産のほとんどと和牛生産の三分の一が消滅すると見込んでいます。国産の加工向け生乳は成り立たず、生乳は飲用向けだけになります。六〇キロ四〇〇〇円の豪州産米との競争は不可能で米価は大幅に下落します(ただし、豪州産の生産量は少ない)。さらに、アメリカ、カナダ、EUなども黙ってはおらず、同等の関税撤廃を求めてくるでしょう。日本農業は壊滅的な打撃を受けます。さらに、乳業や製糖業などの地域経済の損失は、農業の損失額の二〜三倍になります、地域経済ははかり知れない打撃を受けます。北海道庁によれば、北海道における酪農関連の損失額は八六五七億円にも及ぶと試算されています。

 企業利益の追求へ
 農業崩壊もいとわぬ財界


 それにもかかわらず、政府が日豪EPA交渉を推進しているのは、日本農業がなくなってもいいという人たちが、政府の経済政策を動かすところで大きな力をもっているからです。小泉内閣になって以降、政府の経済政策を事実上決定しているのは経済財政諮問会議です。そのホームページをのぞいてみると、経団連会長などの財界人が民間委員として経済財政諮問会議を主導しているのがわかります。日豪EPAも、民間委員の要求で改革政治の柱の一つにすえられました。財界のトップを占めている自動車や電機の輸出産業の経営者たちが、「国益」の名の下に、自分たちの企業の利益を追求しているのです。自分たちの利益を拡大できれば、日本農業がつぶれ、国土にペンペン草がはえてもかまわないということなのでしょうか。
 財界は「規制を緩和し、自由化すれば、競争によって日本農業も強くなる」と主張しています。しかし、この考えは土地や経営規模の差をまったく無視しています。オーストラリアは世界有数の農業大国、食料輸出大国です。日本と比較すると、耕地面積ではオーストラリアが一戸当たり三千四百ヘクタール、日本の一八八一倍もあります。肉牛の経営規模では、オーストラリアが一戸当たり一三七六頭、日本が三〇頭です。さとうきびの経営規模では、オーストラリアが四二ヘクタール、日本は〇・七ヘクタールです。これほどの土地や経営規模の差は、経営努力で埋められる限度をはるかに超えています。「規制緩和・自由化すれば競争によって強い農業が育つ」というのは幻想です。
 「関税を撤廃しても、戸別所得補償制度をつくり、生産費と農産物価格の差額を補償すれば、農業は生き残れる」という意見もあります。しかし、これも空論です。なぜなら、関税をゼロにした場合の所得補償は、コメだけで毎年一兆円以上、総額で三兆円という金額になります。関税収入がなくなるわけで、一〜二年はともかく、長期にわたってこれだけの財源を確保するのは困難で、非現実的な考えだと思います。
 「日本の農産物市場は閉鎖的だ」というマスコミ報道も、明らかに間違いで、意図的なものです。事実はどうでしょうか。日本ほど輸入農産物があふれている国はありません。野菜の三%に象徴されるように、日本の農産物の九割はきわめて低い関税かゼロ関税で、コメ、肉類、乳製品など、わずかに残された基幹作物を守っているにすぎません。平均関税率は一二%で、農産物輸出国であるEUの二〇%、タイの三六%よりも低くなっています。国内的な保護額は六千億円程度で、アメリカの一兆八千億円、EUの四兆円と比較しても、相当に少ないのが事実です。
 「日本の農業は保護され過ぎている」というのも事実ではありません。本当に過保護なら農業後継者は増えるはずです。ところが実際は、若者は都市へ出ていき、農業後継者は減りつづけ、高齢化が進み、耕作放棄地が拡大しています。集落が消滅したところもあります。規制緩和・自由化によって、米価をはじめとする農産物価格が下落し、どんなに頑張っても農業収入が上がらず、生活していけないからです。過保護どころか、農村の疲弊が進んでいるのが現実です。
 経済財政諮問会議は、農業と医療を改革政治の標的にしており、地方では産婦人科がなくなるなど、医療も崩壊状態です。地方はますます住みづらくなっています。過疎地に住むのをやめて都市部に人が集中すれば、行政効率が上がるからいいではないかと、そういう極端な議論が経済財政諮問会議や規制改革会議で出てきています。

 食料自給率は激減

 関税を撤廃して自由競争をすればよいというのは、日本農業は不要だというのと変わりません。ほんとうに日本に農業はいらないのかどうか、日本から農業がなくなっていけば、国民全体にどういう影響を及ぼすのか、今こそ、国民全体で議論しなければならない問題だと思います。
 まず第一に、食料自給率の問題です。規制緩和・自由競争万能の人たちは、たとえ日豪EPAの結果、日本農業が縮小してもかまわない、と主張しています。その理由は、「オーストラリアと友好協力関係を強めれば、日本に優先的に食料や資源を供給してくれるから」というものです。こんな甘い考えはありません。WTO(世界貿易機関)には、国際的に食料が逼迫したときに輸出を禁止してもよいという条項があります。日本政府は、日豪EPAを締結するときは、その条項を外して、日本に優先的に輸出してもらうようにすると主張していますが、これはどう考えても非現実です。
 途上国を中心に世界人口は増え続けており、しかも環境破壊などで異常気象が頻発する中で、世界の食料生産は非常に不安定になっています。もし輸出国が干ばつなどの異常気象で食料生産が落ち込み、自国民の食料が不足したときに、食料を低価格で日本に輸出してくれるでしょうか。そんなことはあり得ません。バイオ燃料生産が高まっただけで、トウモロコシなどの価格が上昇し、家畜飼料の輸入価格がはねあがったではありませんか。国内の食料生産が下がっても、国際協力で食料を安定的に確保できるという考えは、輸出企業の勝手な論理であり、まったくの幻想です。
 日本の食料自給率は、一九六五年頃に七〇%ありましたが、あいつぐ自由化で現在は四〇%にまで低下しています。先進国の中では極端に低い水準です。そんな中で日豪EPAで関税が撤廃されれば、三〇%まで低下すると試算されています。さらに、アメリカ、カナダ、EUなどがオーストラリアと同様の待遇を求めてきて、それに何らかの対応をした場合、影響はオーストラリアからの輸入増だけではすみません。自給率は一二%になるという予測もあります。これほど低い食料自給率の国が独立国と言えるでしょうか。どんなに軍備を増強しても、これでは国民の安全を保障できません。
 国民の命にかかわる食料自給は軍事、エネルギーとともに安全保障の三本柱です。だから、どの国も自国の食料自給を重視しています。例えば、EUはそれぞれの加盟国が自給率を一〇〇%にすることに非常にこだわっています。アメリカのブッシュ大統領は、国内農家に「食料自給は国家安全保障の問題であり、それが常に保証されているアメリカはありがたい」、「食料自給できない国を想像できるか。それは国際的圧力と危険にさらされている国だ」と演説しています。まるで日本を皮肉っているような内容です。

 健康や地球環境への悪影響

 第二に、国民の健康の問題です。
 まず輸入農産物の安全性の問題です。最近、中国の食料の安全性が問題になっています。中国に限らず、これほど大量に輸入農産物が入ってくると、残留農薬や禁止薬物などについて、その安全性をチェックすることはきわめて困難になります。
 たとえ輸入農産物が安全だとしても環境への影響・人間への健康被害があります。農業は窒素とか栄養分を循環させています。ところが日本の場合は、現在でも農地で適正に循環できる量の約二倍の窒素が輸入食料によって持ち込まれ、環境に排出されています。そのため、日本では世界保健機関の基準値を大きく上回る窒素摂取が進んでいます。その結果、消化器系がん、糖尿病、アトピーとの因果関係が不安視されています。とくにブルーベビー症(乳児が重度の酸欠状態になる症状)は窒素との因果関係が解明されています。過剰な硝酸性窒素は、酸性雨や地球温暖化の原因にもなっています。
 日本農業がさらに縮小し、日本から農地が消えて、すべての食料が海外から運ばれてくると、どうなるでしょうか。一方で輸入食料によって持ち込まれる窒素がいっそう増加し、他方で窒素を最終的に受け入れる農地や自然環境が減少するため、窒素はますます過剰になり、大きな問題を引き起こすことになります。
 第三に、地球環境への悪影響です。 輸入食料は大量のエネルギーを使って日本に運ばれてきます。遠くから輸送するほど、輸送による二酸化炭素の排出量が増え、地球環境に悪影響を与えます。食料の輸送距離はフード・マイレージといい、食料重量×輸送距離で表して、二酸化炭素排出量を考える指標となっています。日本のフード・マイレージは韓国の約三・四倍、米国の約三・七倍で、食料輸入により大量の二酸化炭素を排出しています。日本がコメを完全自由化した場合、コメの輸送による二酸化炭素排出量は現在の十倍に増えると試算されています。
 さらに水資源の問題もあります。大量の食料を輸入するということは、大量の水を輸入していることになります。特に大量の水を必要とするコメが完全に自由化されれば、水の輸入は現状の三十三倍に増えます。現在でもアメリカや中国、オーストラリアなどでは水不足が大きな問題となっていますから、コメの完全自由化は、輸出国でさらに水を酷使し、環境を悪化させることになります。自由貿易は効率的に見えますが、二酸化炭素や水など地球環境から見れば非常に非効率です。

 日本の将来は?
 国民的議論を巻き起こそう


 日豪EPA交渉がこのまま進むと、大企業が生産する自動車や家電は売れたが、食料自給率は下がり、国土は崩壊という状況になりかねません。自然環境や国民の健康も汚染されてから気がついたのでは遅いわけです。日本の輸出産業が利益を得られるとか、消費者が安い食料を買えるというのは一時的なことです。そのことによって長期的に失うものがきわめて大きいことを考えなければなりません。
 現在は、農業の市場開放によって経済的な利益を得られるという面だけが強調されています。利益を手にする人たちが声を大きくして、日豪EPAが国益であるかのように言い、日本の農業が壊滅的になることによって失われる国益には目をつぶっています。本当にそれでいいのか。一部の人たちの利益が優先されるようなやり方にストップをかけ、国民的な議論を巻き起こさなければいけないと思います。
 米韓FTAが合意したことで、財界は焦っています。日本政府の当面の方針は日豪EPAの推進ですが、財界は近い将来、さらに米国やEUとのFTAも進めるべきだと主張しています。それを国益だと言っていますが、実際には財界の利益でしかありません。食料安全保障、国民の健康や地球環境を守ることも含めて、長期的な日本の国益とは何かを考えるべきです。
 WTO、FTAやEPA、規制緩和、市場開放、自由貿易など、グローバリズムの流れは、世界的に大きな歪みを生じています。この流れの中で、小規模農業国の農業は衰退し、飢餓が拡大しています。大規模で輸出型の、大陸型の農業だけが繁栄しています。しかし、大陸型の農業はすでに環境面で様々な問題を引き起こして、大規模、効率重視の農業の限界を露呈しています。大陸型の農業で増加する世界人口を支えることは無理です。しかし、このままでは大陸型の農業が世界の食料を担えなくなったとき、国内農業が崩壊した食料輸入国や途上国は自分たちの食料を手にできない状況に直面すると思います。日本は長期の国益という面から、さらに世界の食料や環境問題という面から、日豪EPAを拙速に進めるべきではありません。
 WTOも以前よりは、途上国側の意見が取り入れられるようになってきましたが、依然としてアメリカとEUが主導していることに変わりはありません。日本のような食料輸入国、多くの弱小国は、蚊帳の外におかれています。日本はWTO主要国の議論には入れない状況です。アメリカは米州圏を背景に、EUは統合したEU圏を背景に、大きな発言力をもっています。
 だから、日本は食料自給率が低下し、状況の似ているアジア諸国と一緒になって、食料安保や地球環境という立場をアピールできるように、足場を固める必要があると思います。アジアの連携をもっと重視し、アメリカに対抗して発言力をもてるように努力すべきです。アジア圏というまとまりを強化するような動きをすることが長期的には重要だと思います。アメリカはアジア諸国が結束することを非常に恐れています。日本が中国やアセアン諸国と一体化すればアメリカの権益が侵されると考え、アジア諸国が結束しないようにいろいろと画策しています。
 政府はこのようなアメリカに対抗し、多くの国民の立場に立って、世界の中でどうやって日本を持続的に発展させていくのか、自主的な国家戦略を考えるべきなのに、そんなようすは見られません。それどころか、北海道の農家の人から聞いた話によると、某省の役人が日豪EPAに関連して、「何年か後には関税が撤廃されるので、離農するかどうか考えた方がいい」という噂を流しているそうです。事実は何も決まっていないのに、農民に反対運動をあきらめさせようとする悪質な情報操作です。
 私たちは、世間に横行している見解の間違いをただし、日豪EPAが実現すれば日本の農業が深刻な打撃を受けること、それが農業だけの問題ではなく日本の将来にとって重大な影響を及ぼしていくことについて、国民にきちんと説明する必要があります。拙速に日豪EPAを締結しようとする流れを許さない。そういう国民的議論を巻き起こさなければいけないと思います。  (談・文責編集部)