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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2006年3月号

外交不在の小泉外交を問う

アジアに友人を持たず、対米一辺倒が体質化

元駐中国大使  中江 要介


アジアで孤立する日本

 靖国神社の問題で、日本と中国や韓国などアジアの国々が、最近はアメリカまで、なぜこんなに悩んだり憤慨したり悲しんだりしなければならないのか。うんざりしている。根っこにあるのは戦争責任、歴史認識の問題で、日本が戦争に対する反省をきちんとすればいいことだ。その反省がないかぎり、一般市民であれ総理であれ、靖国神社に参拝することは考えなければならない。
 戦争が終わった時に反省しなければならなかったのに、いい加減にしたから、いまだに「あの戦争は間違っていなかった」「侵略はなかった」「戦争だからやむを得ない」「東京裁判は一方的な裁判で認められない」と、自分を弁護する理屈ばかりならべている。小泉総理は「よその国に言われてやめるのはおかしい」「靖国神社で再び戦争をしないと誓って何が悪い」「自分は日中友好論者だ」と、とんちんかんなことを言っている。その傲慢さ、思慮の浅さが日本の外交をダメにした。好意的に接してくれる国はなく、日本はアジアで孤立している。
 端的な例が国連安保理常任理事国入りの問題だ。アメリカがお世辞で賛成と言うだけで、アジアの中では誰も支持してくれない。東アジア共同体の問題でも、アメリカに遠慮してか、真剣に取り組もうとしていない。日本に一肌脱いでほしいという声はなく、むしろ中国への期待が高まっている。昔、西ドイツのシュミットやシンガポールのリ・クワンユーが「日本はアジアに友人がいない」と言ったが、隣人からそっぽを向かれたままだ。

 井の中の蛙

 靖国問題のために、中国の三峡ダムや新幹線の問題は他の国にシフトしている。このままだと、総理が辞める秋までマイナスが続く。東シナ海のガス田開発問題でも「歴史認識であの態度では話しても無駄だ」と、相手が真剣にならない。そんな状態を小泉内閣がつくりだしている。
 それを反省するどころか、「反省すべきは相手側だ」「靖国問題で文句を言っているのは中国と韓国だけだ」と言う。日本にとって一番の隣人は韓国や中国なのに、その大切さが分かっていない。隣国の人たちがどんな気持ちでいるか、おもんばかる気持ちすらない。まさに「井の中の蛙」で、日本は近隣外交不在だ。相手が問題だと言っているのに、何が問題なのか謙虚に聞く姿勢がない。自分だけが正しいという傲慢さは、二十世紀の日本がアジアで大きな間違いをおかした時と同じだ。歴史に学ばず、反省もしない。
 中国や韓国の靖国批判に対して、マスメディアは「中国の国内事情があるのではないか」「韓国は政権の弱みを隠すためにやっているのではないか」などと書きたて、小泉総理は「靖国は外交カードになりません」とそれに答えている。外交をそんなテクニックだと考えるのが大きな間違いだ。一番大事なのは、国民一人ひとりが日本の国を守るためにどんな外交が妥当なのかを虚心坦懐に考えることだ。靖国でいえば、戦争に対する反省、戦争責任をどう考えるかだ。

 戦争を反省しない日本

 日本は、国体護持つまり天皇制が守られるなら無条件降伏するとして、ポツダム宣言を受け入れた。当時の国民は天皇制でマインドコントロールされていたから、天皇制を残すことにある程度の国民的合意があったと思う。しかし、天皇制を残したことが災いして、天皇制を利用して自分の野心を実現しようとする軍閥、政治家、財閥が戦争を推進したのと同じパターンの動きが出てきている。天皇の名においてやれば国民はそんなに反対しないからだ。皇室典範改正問題を見ていてそう思う。何となく天皇制がタブーになってきた。保守政党の政治家が「男系天皇が支えてきた」などと発言しているのは、戦前の状況と同じだ。総理の政治姿勢をみていると、天皇の名において軍閥や政治家や財閥がばっこしたのと同じ風潮、危険な雰囲気を感じる。
 国体護持とは、姿を変えた独裁の容認だ。そのため日本人は戦争を反省しないですんだ。天皇も反省しない。誰も戦争を反省しない。占領軍は東京裁判でケリをつけようとしたが、本音は「悪くなかった」だから反省する必要を感じない。戦争を戦い、天皇陛下万歳と言って死んだ者が神となって靖国に祀られ、これを弔うのが当たり前となる。これに反対すれば国賊ということになる。日本の敗戦は、政治体制として国体護持という間違いをおかした。
 米ソ冷戦に入ったので、日本はアメリカ側につき、その援助の下で短期間に経済復興した。第一次大戦で敗戦して膨大な賠償金や国土を取られたドイツの場合とは違っていた。シベリアに抑留された人たちを除いて、中国や東南アジアからも兵士が帰ってきた。食糧難だったが、余剰農産物を抱えていたアメリカから援助をもらい、技術や資金がアメリカから入ってきた。助けてくれたのはありがたいが、そのために日本は犯した戦争の罪深さを考えることを忘れた。歴史認識が足りないことの根本にそれがあると思う。
 国体護持ということで天皇制を残したこと、冷戦下でアメリカの支援を受けて経済的に復興したこと、この二つが日本人に戦争を深く反省させるチャンスを奪い、歴史認識は不十分なものとなった。それがいま戦争の是認にまでなって表れている。

 外交こそ国防の第一線

 戦争には加害者と被害者があり、大きな犠牲と不条理があった。あの戦争でほぼ全土の空襲と広島・長崎の原爆と沖縄の被害以外は日本が加害者だ。日本人は加害の反省もないが、被害の意識も薄れている。あの戦争で沖縄だけが激烈な地上戦を体験した。多くの日本人はそれを忘れてはいないかも知れないが、意識の外にある。沖縄の人たちが今も米軍基地で苦しんでいるという理解はほとんどない。
 原爆の問題では、非核三原則はあるが核不拡散条約に対する認識が足りない。日本政府は核不拡散条約改定の時も、核廃絶の態度を鮮明にせず、核兵器保有国のわがままを許した。核の犠牲を受けた日本であればあるほど、核をもたない国が核を持つことに反対するよりも、核保有国とりわけ核を独占している国に核を放棄せよと言わなければならない。「最初で唯一の被爆国」としての決意があり、戦争を反省しているなら、核廃絶のために闘うべきなのに、アメリカに核を放棄せよと言えない。
 小泉総理は「アメリカと仲が良ければいいんだ」と言う。喧嘩するより仲が良い方がいいに決まっている。だが、アメリカと仲が良いことと、何でも言いなりになったり、アメリカが常に正しいということとは違う。アメリカがイラン、イラク、北朝鮮を「ならず者国家」といえば、日本もならず国家と呼ぶ。アメリカがイラクに戦争を仕掛ければ、それを支持して自衛隊まで送る。たえずアメリカに「右へならえ」で、国益を考えていない。湾岸戦争の時、百二十億ドルもお金を出したのに「金だけじゃダメだ、血を流せ」と言われて自衛隊の派遣を考えた。「血を流す」のは愚かなことだ。国民が汗水流した税金を出したのに、「血を流せ」と言われて「はいそうですか」では、国を守っているとはいえない。
 対米一辺倒、アメリカべったりが体質になっている。防衛庁を防衛省にすることが国を守ること、日本国内に米軍を駐留させることが国を守ることだと思っている。そうではない。力で守るのには限度がある。国防の第一線は軍事ではなく外交だ。国防の正道である外交を放ったらかして、アメリカの軍事力、核抑止力に頼り、日米同盟を強化して防衛予算を増やすことが国防だと思っている。国際社会で国と国とがつき合い、国を守ることがどういうことなのか、わかっていない。
 「米軍基地がなくなれば空白になってやられる」という議論がある。誰に攻撃されるのか。「中国が台頭してきた」「北朝鮮はならず者だ」というが、影に脅える被害妄想だ。軍事的に対抗するより仲良くする方がいい。世界一の軍事力を持つアメリカを危険だと言わない。仲が良いからだ。中国、韓国、北朝鮮とも仲良くすれば影に脅える必要はない。最初から敵だと思うから、これらの国の台頭を「脅威」と感じ、軍事的に対決の姿勢をとる。その象徴が靖国の問題だと思う。

 ポスト小泉

 こんな小泉政権なのに、内閣支持率はあまり下がらない。国民の一人ひとりが、総理の靖国問題が国益を害していることを意識していない。これは一総理の問題ではなく、外交を見る目がない国民全体の問題だ。
 小泉総理は秋で辞める。ポスト小泉が問題だ。これまでのように人気投票でポスト小泉が決まれば、二十一世紀の日本は大きな間違いをおかすことになる。総理は「自民党をぶっこわす」と言って外交をぶっこわし、国民をだました。ポスト小泉はどういう人物か、国民は見きわめなければならない。候補に上っている人間はどれも総理のイエスマンばかりだ。小泉路線を踏襲しないと総理になれないと考え、迎合している。信念がなく、あるのは権力へのどん欲さだけだ。
 中国も韓国もポスト小泉がどうなるか見ている。たとえば安倍になると、中国や韓国との関係はさらに悪くなる。日本では「家系がいい」「育ちがいい」「格好がいい」「人気がある」と持ち上げる。人気で外交をやられたのでは国民が困る。しっかりとした外交理念がなければダメだ。マインドコントロールされて大失敗したのが二十世紀の日本だった。このままでは徴兵制が復活する危険性もあり、二十一世紀も同じ過ちをおかすのではないかと心配だ。

 脱亜入欧から脱米入亜へ

 中国をはじめ、韓国、東南アジアが経済的に台頭していることに危機感をもっている人たちがいる。この考えの根底には福沢諭吉の「脱亜入欧」がある。あの「脱亜入欧」から間違いが始まった。日本はおくれたアジアを相手にしないで欧米にならうべきだ、日本は偉いんだ、という意識をもってしまった。明治以来、アジアの中でたえず優越感をもってやってきたが戦争で負けた。くやしいから負けたと言いたくない。だから、「脱亜入欧」の思想も反省していない。いまだに「脱亜入欧」のまま、それが今は「脱亜入米」になっている。
 戦争に負けて世の中が変わったとき、あるいは米ソ冷戦が終わったとき、「脱亜」をやめて「脱欧入亜」あるいは「脱米入亜」になるべきだった。日本は誰が見てもアジアの一員である。選挙でいえば、選挙区はアジアだ。選挙区(アジア)で日常活動をしないで、選挙(たとえば安保理常任理事国入り)に勝てるわけがない。そういう単純なこともわかっていない。アジアの一員として「脱米入亜」に転換しなければ、日本の将来はやっていけなくなる。
 福沢諭吉が「脱亜入欧」を言った頃のアジアと今のアジアは違う。ヨーロッパも違う。現実の国際社会をよくみれば、日本はまずアジアの一員として、アジアの近隣諸国との友好関係を築くことを最優先の外交理念とすべきだ。先進国首脳会議のメンバーであることを誇りに思うような間違った優越感を持ち、日本は大国であると思っている間は、アジアから信頼されないだろう。
       (談・文責編集部)