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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2005年11月号

普天間移設問題

県民は県内移設を許さない

沖縄県議会議員  玉城 義和


 沖縄における米軍による事件・事故は後をたたず、沖縄が復帰後のこの三十三年間で五千件余にものぼり、その中には殺人や婦女子に対する暴行事件など凶悪事件も数多く含まれている。また、米軍演習時の実弾が民家近くに飛んできたり、高速道路を軍用車輌で演習と称して我が物顔で走り回るという状態が続いている。これら日常的な米軍被害の中でも県民に衝撃を与えたのは一九九五年に起こった少女に対する複数の米兵による暴行事件であった。
 県民の怒りは最高潮に達し、「一〇・二一県民大会」の八万五千人につながったのである。くしくも今年は、あの一〇・二一県民大会から十年目だが、沖縄の米軍基地をめぐる状況は一歩も前進しておらず、かえって複雑化し矛盾は深まっている。
 米軍再編協議の中でも、沖縄県民に基地を押しつける構造的な沖縄差別の実態は一向に変わっていない。

 県民大会から普天間の移設へ

 十年前、宜野湾市の海浜公園は八万五千余の県内外の参加者によって大きな怒りのうねりに包まれていた。この県民大会の企画・立案に最初からかかわってきた私は、この日の朝、誰もいない集会場の巨大な舞台に立って、この集会は沖縄の何かを変えてくれるものになるだろうという思いで、武者震いを覚えたものである。
 案の定、この大会は日米両政府に大きなインパクトを与えた。
 世界から集まった主要なメディアが沖縄の怒りを世界に伝えてくれたのである。とくに敏感に反応したのは米国であった。この状態をそのまま放置すれば、日米同盟の崩壊につながりかねないとの懸念である。
 この県民の怒りを受けて、日米両政府は動き出した。当時の橋本総理は翌年の一九九六年四月、県民から返還要求の強かった普天間飛行場の返還を打ち出した。県民は飛び上がって喜んだが、その喜びもつかの間だった。普天間基地の代替施設を県内に新たに建設するということが前提条件だったからである。そしてそれは、十年にわたる沖縄県民の分裂と混乱の始まりだったのである。
 初期の段階でこそ地元の名護市長も反対を表明したが、振興策などという「アメ」につられ、基地を受け入れて、こともあろうに総理官邸で市長辞職を表明するという、反市民的・反県民的な醜態をさらした。
 その後、九八年に行われた名護市長選や知事選では基地誘致派の勝ちが続き、結果的に二千六百メートルにおよぶ海上埋め立て基地を建設する最悪の事態に追い込まれている。

 激化する反対運動

 太平洋に向かって広がる辺野古の海は、普段はきわめてのどかで、おだやかな表情を見せている。
 しかし、その海はSACO報告が出されて以来、激動の海と化している。海をのぞむ山のふもとに立てられた闘争小屋は「生命を守る会」のおじいや、おばあたちが座り込みを続けすでに八年余(十月二十六日現在、三千百九十五日)が経過している。地元、辺野古に生まれ、豊かな海によってはぐくまれ海と共に生きてきた「生命を守る会」のお年寄りたちは文字通り海は自分たちのいのちそのものなのだ。
 皆、高齢者で、長い闘いで疲労感もあるが、しかし、絶対に基地はつくらせないという決意は、みじんもゆるぎないし、また、各種集会でいつも先頭に立っているのは、この地元辺野古のおじい、おばあなのである。

 「ヘリ基地反対協」の闘い

 地元の方々と常に共同歩調をとり、この十年近くにわたり、名護への基地建設を許さない闘いの先頭に立ってきたのは「ヘリ基地反対協議会」である。名護市の民主団体や、婦人団体、革新政党、労組などで組織されるこの「反対協」は九七年に全国初の基地建設の是非についての市民投票を担った組織をひきついでいる。
 この「反対協」は、二〇〇四年四月十一日に那覇防衛施設局が海上基地建設のためのボーリング調査を始めて以来、海岸べりにテントを張り、座り込みを続けるかたわら、漁民の協力のもとに、連日漁船を出し、ボーリング調査のために建てられたやぐらに登り、実力闘争で調査を阻止している。座り込みと、実力阻止闘争は十月二十六日現在、五百五十六日に及んでいるが、那覇防衛施設局の執拗な工事執行に対して、これまでクイ一本打たせないという成果を上げ、日本政府をして実質的に工事は不可能というところまで追い込んでいる。
 全国的な支援はもちろん、グリーンピースなど国際的な環境団体の支援をうけ、また闘いがBBCなどで世界に向けて放送されるなど世界的な広がりを見せている。
 ジュゴンの棲む豊かな海、また美しい珊瑚礁の広がる、かけがえのない海を埋め立てて米軍の基地をつくるということが、いかに前時代的であるか、ということが広く市民や県民の共通認識になってきたということは確実である。

 混迷する稲嶺県政と闘いの展望

 沖縄県の稲嶺知事は、基地受け入れの条件として1,移設地域の振興策、2,自然環境への配慮、3,普天間代替施設の軍民共用化、4,米軍の使用期限を十五年に限定すること、の四点をあげ九八年知事選に当選した。
 知事は、千五百メートルというSACO報告を、民間機を飛ばすために二千六百メートルまで拡大させ、軍・民が共用し、十五年後は民間専用空港とすることを大きなセールスポイントにしたわけである。
 しかし、これは、後背人口十二万人余りで民間空港の需要があるのか。また、一兆円近くをかけて建設した基地を十五年で返還することが現実的なのかということで、言い出しっぺの知事自身以外は誰もが信じていなかったといっていい。私などは、県議会のたびにこの問題を取り上げ、膨大なエネルギーを費やしてきた。
 当初の予想通り、十五年の基地使用期限についてはアメリカはもとより、日本政府も一度たりとも自らの問題として、日米のやりとりで取りざたされたことはない。同時に、SACOの最終報告から九年もたって、普天間基地は一センチも動かない。一方で昨年の普天間基地のヘリが沖縄国際大学に墜落する事態が発生し、危険は現実のものとなったのである。
 このように、知事の政策も行き詰まり、また強い県民の反対運動によって、辺野古沖の現行計画は実質的にとん挫している中で、今回の米軍再編の中で沖縄の基地が大幅に整理縮小されるのではないかとの県民の期待が高まった。その中で稲嶺知事は、一方で海兵隊の県外移設をいいながら、同時にSACOの報告は生きていると主張し、辺野古移設撤回をいうことはなかった。また、普天間の県外移設を求めつつも、そうでなければ現行の移設案でいくべきとしている。
 最近、辺野古「沿岸案」で日米が合意したと報道された。またしても県内への移設であり、基地負担の県民への押しつけである。県知事の立場と日米両政府の決定が違う事態になり、混乱は一層深まることは必定である。また政府は、予定地域(公有水面)の使用権限を知事から取り上げる特別措置法案まで検討しているという。米軍用地強制使用と同じ強権で県民に犠牲を強いる暴挙は絶対に許されるものではない。

 闘いの展望

 われわれの決意は、これ以上の基地は一坪たりとも造らさないということである。海であろうが、陸であろうがである。日本政府も、アメリカにしてもそういう地元の県民の意思に反して、新基地建設が可能と思うのはもはやあまい幻想である。
 世論調査においても、八〇%以上が辺野古移設に反対し、わずか二〜三%の賛成しかないということを日本政府は認識すべきである。
 また二〇〇六年一月には名護市長選を控えている。われわれはすでに候補者を決定して、選挙準備をスタートさせている。八年前と同じで、この勝敗はまさに基地の県内移設を左右する重要な政治決戦である。まさにこの十年近くの分裂と混乱から抜け出し、不毛に失われた時間を取り戻さなければならない。