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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2004年8月号

イラク現地報告

フリージャーナリスト  安田純平


 四月にイラクで一時拘束されたフリー・ジャーナリストの安田純平氏の佐賀講演会(五月三十一日)での発言の一部を紹介します。

ファルージャ情勢拘束の経緯地域ぐるみスパイ容疑市民同士の交流を

 先日、ベテランのジャーナリストの橋田さんが亡くなられました。経験と技術と度胸、どの面から見てもプロ中のプロです。それでも回避できないケースで非常に深刻だと思います。私のケースは、相手は農民であり、地域住民です。テロリストという表現は適当ではない。また高遠さんたち三人もケースが違う。それぞれのケースを分けて検証し、対応を考える必要があると思います。小泉首相のように、すべてテロリストという表現をすると、実際とも違うし、検証や対策ができません。

◆ファルージャ情勢
 イラク開戦一年後の今年三月中旬から四月にかけて、イラク各地で爆発事件や米兵襲撃が続きました。そういう中で三月末、ファルージャでアメリカ人の民間人四人が殺されてつるされたという事件が発生。実際は傭兵で、元米軍の特殊部隊の人間が警備会社員として現地に行っていた。地元勢力が正体を見破ったのだと思います。米軍側は報復を始め、四月初めから約一週間で、七百人以上のイラク人が殺されるという掃討作戦が始まりました。
 ファルージャはイスラム教のスンニ派の住民が住んでいる地域です。スンニ派は、フセイン政権と近い関係にあるといわれ、米軍は当初から厳しい扱いをしていた。昨年四月に小学校を占拠した米軍に抗議デモをした地元住民が、一斉射撃を受けて大勢が死亡した。この事件がファルージャでの米軍と地域住民との対立の始まりです。
 そういう中で発生したのが、四月八日の高遠さんたち三人の人質事件です。市民の反応を日本の新聞社に送るため、翌九日、バクダッド市内を回りました。背景に米軍の掃討作戦があることは明白なので、「反米感情」の強い地域で声を聞きました。
 サドルシティは、イスラム教シーア派のサドルという指導者の支持者が多く住んでいます。数日前の米軍ヘリ攻撃で、死亡した民間人の葬式をやっていました。民兵は「米軍と戦っているが、人質という方法には同意できない」と同情的でした。
 一方、スンニ派住民が集まっているアダミア地域は、米軍が包囲していて緊張していた。ここでも「人質という方法は同意できない」という。一方で「お前たちは日本人三人が心配で来たんだろう。それは分かるが、ここ数日だけで何百人も殺されているイラク人の命も同様に尊重すべきではないか」と問い詰められました。この言葉が、ファルージャの現地取材に向かわせるきっかけでした。
 その頃、ファルージャ方面からの避難住民は約八千人といわれていました。中年男性は、おととい自宅が空爆されて二十五人が亡くなったと話し、別の青年は、ファルージャの東十数キロにある小さな村も今朝空爆されたので逃げてきたという。停戦期間も米軍の空爆は続き、その周囲にも空爆が広がっていることがわかってきました。
 当時、ファルージャの現場報道は、掃討作戦以前から中にいたアルジャジーラが映像を流していました。だからイラク市民は何百人も犠牲が出ていることを知っている。しかし、それ以外のジャーナリストはファルージャ周辺には近づけなかった。地元住民が受け入れないからです。四月上旬に十六カ国の五十人が拘束されており、近づけば捕まる。そのためファルージャ中心街の様子は何とか分かるが、その周囲の状況はまったく分からない状況でした。
 米軍による刑務所での虐待で有名になったアブグレイブまでは近づけるかも知れない、という欧米ジャーナリストの情報。どこまで行けるか偵察に行ってみようと決めました。

◆拘束の経緯
 四月十四日朝、私とルームメイトの渡辺さん、通訳の青年とチャーターしたタクシーの運転手の四人で出発しました。アブグレイブの手前で米軍が高速道路を封鎖、迂回した幹線道路も封鎖していた。さらに迂回し、すれ違うタクシーに情報を聞きながら進む。すると「この先でムジャヒディン(イスラム聖戦士)が検問を張っている」と教えてくれた。
 迷っていると、ファルージャへの救援物資を運ぶトラックの車列がやってきた。この車列にまぎれこめば、安全度も高まると判断し、車列の中に入って進みました。アブグレイブ刑務所を過ぎた所で、前に止まっている乗用車からイラク人五人が降りてきた。私のビデオカメラを指差して「撮影しているのか」という動作をしたので否定した。通訳の青年の話によると「米軍ヘリが墜落しているので案内すると言っていた」という。Uターンもできない所でついていくと、案内と別の乗用車が道路をふさぎ、自動小銃カラシニコフをもった十人ほどのイラク人が出てきて拘束されました。四月十四日午後二時ごろでした。覆面もせず、白昼堂々の拘束でした。
 解放後に帰国してテレビに出たときに、コメンテーターが「欧米の記者は警備員をつけている、あなたは甘い」と言いました。しかし、戦闘地域に武装した警備員を連れていくのは論外です。実際、当時拘束されたほとんどが解放されていました。私が捕まるまでに解放されなかったのは、日本人三人とイタリア人四人とドイツ人。日本人とイタリア人は、派兵している国の国籍。ドイツ人は武装した警備員だった。武装していて捕まると深刻な事態になる。拘束は「無差別」だが、一定のルールがあり、無差別には殺されないと感じました。

◆地域ぐるみ
 拘束後、目隠しをされて車で十五分くらい移動。そこは民家の一室でした。その家には家主の男性、紅茶を持ってきてくれた少年、母親の声も聞こえました。子どもがいるということは、この拘束が地域公認の行動であり、地域に入る人間をはしから捕まえて、怪しくないと思えば帰すという、地域ぐるみのいわゆる自警団だと思います。
 拘束した自警団が私の荷物のビデオを手に取り、「身分証明書をもって名前を言え」と言った。録画ボタンが押されていないことに気づいたが黙っていました。そのうち、今度は覆面をしはじめて、例の三人のように撮るぞといって、銃をもってきて私たちの後ろに立ちました。この映像が届けられれば正式に人質になるので、録画ボタンのことは黙っていようかと思いましたが、後で何も映っていないと分かるとまずい。録画ボタンを押すよう教えました。後ろで何かしゃべって撮影はすぐ終わりました。そして「これをアルジャジーラに送る。明日、日本はまた大騒ぎだ」とニヤッと笑った。そして「明後日には解放だ」という。
 また目隠しをされて車で移動。今度は農家の一室で、窓の外は見渡す限り農場、牛や鶏が見えました。家主の男性がいて、少年がお茶を持ってきてくれた。誰も銃を持っていないし、敵意も感じない。
 でも彼らは片言の英語、こちらもアラビア語のわずかな単語だけで、すぐに会話が途切れる。沈黙は気まずいので、考えたのが目隠しに使われた布です。アラブの人がかぶるクフィーヤという布です。「武装勢力の覆面の巻き方を教えてほしい」とお願いして教わりました。お客が来るたびに家主が「覆面をやれ」という。覆面をまくと、現地の人が笑うわけです。これで落ち着きました。
 長方形の部屋の一番奥に私たちが座らされました。みな壁沿いに座る。席順は年齢や家の格など決まっており、お客がくると全員と握手して適切な位置に座る。末席にこの家の十歳くらいの少年がいた。お茶運びなど「使い走り」扱いだが、お客さんが来ると末席でちゃんと握手できる。こうやって部族社会の秩序を学んでいくんだと思いました。いまイラクは事実上の無政府状態です。そんな中で、何百年、何千年と続いてきた部族の秩序が社会を維持させている。なるほど、と思いました。
 ここなら一カ月位いてもいいと思い、英語が話せる人に「働かせてほしい」と頼みましたがダメだという。「米軍の戦闘機が飛んでいて、お前の顔を見ると銃殺するだろう。そして、ムジャヒディンが日本人を殺したと言うので困る」というわけです。
 そこにものすごい轟音、外を見ると米軍機が超低空で飛んでいった。戦車みたいな迫撃砲を搭載している攻撃機AC130でした。やはりここは戦場だと実感しました。
 夕方七時四十五分にお祈りが始まりました。みんなでメッカに向かってコーランの唱和が始まる。その声がコーラスのように聞こえる。感動的で、あの光景は撮影したかった。三歳の男の子も見よう見まねでお辞儀をしている。自然の中で暮らし、幼い頃から神に感謝する生活の中で、イスラムの信仰心が養われていくのがなんとなくわかりました。
 夜になり、停電で天井の扇風機が回らず蒸し暑い。外に連れ出されました。広場にじゅうたんを敷いて、くつろぐ。涼しい風が通り抜け、満天の星。なんと豊かな時間だなあと思いました。こうした生活を守るために彼らは武器を取って戦っているのだろう。北極星が見えたので、「ファルージャは」と聞くと「向こうだ」という。北極星がこっちでファルージャがむこうで、別の方向にアルグレイブらしい町の灯り。この場所のだいたいの見当がつきました。
 英語の分かる農民が「これまでイラクと日本は争ったことがないが、米軍に従って軍隊を送った以上は敵だ。米軍の攻撃で大勢が犠牲になっている。われわれの生活を脅かすなら戦う」と語った。米軍への武力闘争を支えているのは、こうした農民たちだと感じました。
 翌十五日昼前に、自警団の人が来て、「昼のニュースにお前が出る」といいました。テレビに私の顔が映りました。今年三月に撮影したものと一年前の写真でした。結局、昨日のビデオ映像は流れずにニュースは終わった。彼は残念がっていましたが逆上した様子はない。最初から人質のつもりではなかったのだろう。
 私が「ニュースが流れたから、これから米軍攻撃の現場に行って明日解放か」というと「ダメだ」という。

◆スパイ容疑
 夕方、三番目の場所に移動。殺風景な部屋でした。ここで高遠さんたちが解放されたと聞き、ほっとしました。しかし、メンバーも替わって、トイレなど行動の規制が厳しくなった。後から考えると、どうも武装勢力に引き渡されたようだ。武装勢力は米軍の掃討作戦の対象なので、メンバーは地元の人にも秘密になっている。英語の分かる通訳が連れてこられ、尋問された。そのあと、一緒に食事をしながら、バクダッドのアパート家賃などの話をした。
 十六日の早朝、また目隠しをされて移動。四番目の場所は学校の教室でした。黒板があり、周囲の青年たちはみんな銃を持っていました。明らかにこれまでとは雰囲気が違う。
 一人が「お前はFBIか?」と叫ぶ。「違う」というと「ではCIAか?」と。「違う」と答えると「芝居がうまいな。アラビア語も知っていてわれわれの会話も分かっているんだろう。お前はスパイか?」という。そして手にしていたカラシニコフに弾を装てんした。見ると銃の安全装置も外されており、いつ発砲してもおかしくない状況でした。
 これはまずい、どうしようかと思っていたら、前の晩に泊まったときアパートの話をした人が、「スパイとは違う」と説明してくれました。
 敵意むき出しの男性が「お前らは俺たちがどうしてここまで米軍を憎むか分かるか」というわけです。「俺は以前、友人と道を歩いているだけで米軍に問答無用で捕まえられた。どこか分からない刑務所に一カ月入れられ、殴るけるの暴行を受けた。ある日、個室で服を脱がされた。何をされたか分かるか。俺の人生は終わった。あとは米軍に復讐するだけだ。同じ目にあったらどうする」と激しい口調でいうんです。
 尋問が始まりました。まず渡辺さんで、私は別の部屋に入れられました。その見張り役が「日本はヒロシマ、ナガサキの経験があるのに、なぜ米国に従って軍隊を送ったのか」と詰問してきた。私は「日本は六十年前の戦争で米国に占領された。今でも日本には米軍基地がいくつもある。しかし、日本には自立しなければと考えている人も多い。私は日本が支持している米国の戦争の実態を伝えるためにイラクに来た。私はカメラで戦っている」と答えました。
 私の尋問が始まった。名前、年齢、住所、職業。イラクへは何度目か、なぜ来たのか…。流暢な英語でした。できるだけ冷静に答えました。そのうち「この中身は何だ」とフロッピーディスクを差し出しました。また「カメラの中にGPS(衛生利用測位システム)が入っていて、米軍にこの場所を知らせているのではないか」と詰問されたが、当然否定。ビデオやプロッピー、カメラなどがスパイ容疑の根拠になっているようだ。そして「終了だ。あとはボスの判断だ」と言って出ていく。
 尋問は午前中に終わったのに、夜九時近くになっても審査の結果が出ない。若いのが来て、「お前らのことをスパイだと言い張るやつが何人かいるんだ」と言うのです。いよいよこのへんで終わりかなあという思いも頭をよぎりました。
 前の晩に一緒に泊まった男性が来て、「明日バグダッドへ帰す」と宣言。最後の拘束場所の民家に着いて、彼らと話をしました。翌朝一時間ほど移動した所で、目隠しのまま車から降ろされ解放されました。

◆市民同士の交流を
 なぜ解放されたか。決定的なのは丸腰だったこと。銃をもっていれば一〇〇%死んでいます。
 もう一つは親日感情ではないか。彼らは自衛隊を送った日本政府を徹底的に批判しながら、うちの車はトヨタだという話をする。核兵器で壊滅的になったのに復興した日本人を尊敬しています。八〇年代のイラクには日本企業がたくさん行っており、日本人と一緒に働いたイラク人たちも多い。だからイラクは中東の中でも親日感情が強い。日本人だから拘束されスパイ容疑もかけられたが、日本人だから無事に解放されたという面もある。市民同士の交流の中で作られた親日感情、歴史が自分たちを救ってくれたと思います。
 イラクでの親日感情を食いつぶしているのが今の現状だと思います。日本人の拘束はどう考えても、日本が米国の戦争を支持し、自衛隊派遣が原因です。イラク支援といいながら、実は「アメリカから石油をもらえる」という発想では、イラク人は信頼しない。一般市民を見つめるような民間人の交流が大事ではないかと思います。   (文責編集部)