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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2003年3月号

国策に蹂躙された中国残留邦人

問題の早期解決を


中国帰国者の会事務局長  長野浩久


 国策の開拓団、そして棄民

 中国残留邦人の問題は、政府が中国の東北地方に、満州開拓団として昭和恐慌で疲弊した農村から大量の人々を送り込んだのが出発点です。開拓団の人数は約二十七万人といわれ、特に長野県出身は三万人いました。県教育界が軍国思想を徹底してたたき込んだため、親の反対を押し切り、少年義勇軍として開拓団に参加した子どもたちが多かったのです。まさに日本の国策でした。
 一九四五年の敗戦、ソ連軍の侵攻で、日本軍は開拓団を置き去りにして逃げ、途中で次々と橋を爆破しました。成人男性は徴兵されていたので、置き去りにされた開拓団は女性や子どもだけで、集団自決を強制されたり、苛酷な逃避行を余儀なくされました。ソ連軍侵攻以降の二週間で、すさまじい数の集団自決が起きています。その構図は沖縄戦と同じで、日本軍は開拓団の各団長に青酸カリを携帯させ、集団自決を強要しました。原告の鈴木則子さんは、自決した死体の下で血を塗って死体を装い生き延びた一人です。
 こうして敗戦直後に、開拓団の三割、八万人の人が犠牲になりました。逃避行のすえに帰国した人もいましたが、多くの人たちが中国に残されました。一九四九年の中華人民共和国誕生後、なんとか帰国した人たちもいましたが、中国敵視政策が強まる中で、五八年に長崎国旗事件が起きました。日中は完全に断交状態となり、七二年の日中国交正常化まで帰国の道は閉ざされました。
 政府は五九年、戦時死亡宣告という形で未帰還者の戸籍を抹消しました。国策で開拓団を送り込んだのが第一の棄民政策、敗戦時に置き去りにしたのが第二の棄民政策。そして戸籍抹消という第三の棄民政策を行って、政府は「戦後は終わった」と公言しました。許し難いことです。
 日中国交正常化後、七四年に民間による肉親探しが始まりました。原告の鈴木さんが帰国したのが七八年です。政府は中国残留邦人問題で動こうとしませんでした。当時、厚生省は「敗戦時に十三歳以上の人たちは帰る気になれば帰れたはず。帰国しなかったのは本人の意志」と発言し、一時帰国は認めても永住帰国はなかなか認めませんでした。
 政府は国交正常化後も九年間放置し、本格的に調査を開始したのは八一年でした。マスコミが集団訪日調査を取り上げたので国民の関心も高まり、身元が判明した人たちが帰国するようになりました。九四年に帰国者援護法もできましたが、それまでの厚生省通達を法律にしただけで、何も変わりません。唯一変わったのは、国民年金の国庫負担分、月額二万円の支給だけでした。

 帰国後の厳しい暮らし

 帰国者は所沢の定着促進センターで四カ月間生活した後、定着地を割り当てられますが、選択の自由はありません。最優先は出身県ですが、遺産相続問題で親族が受け入れを拒否する場合も多く、希望しない定着地を割り当てられた人たちが定着促進センターの卒業式をボイコットし、所沢に居座る状況が続きました。定着地に移り住んでも、そこでの日本語学習は八カ月。所沢とあわせても十二カ月です。敗戦後、中国で何十年も日本語を使わず生活してきた五十代、六十代の高齢者が、一年間で就職に支障のない日本語を身につけるのは不可能です。鈴木さんはこのような国の対応ではだめだと、八二年に「中国帰国者の会」を立ち上げました。帰国者のための日本語教室の教師に応募していた私は、その二年後からこの会に加わりました。
 残留婦人、残留孤児、その子どもの世代によって、日本との関係に違いがあり、大きく四つに分けられます。当時十三歳以上だった残留婦人は、死ぬときは祖国でという思いです。残留孤児の場合は養父母が亡くなる時に初めて知り、日本人なのか中国人なのか、自分の存在を確認したいという思いがあります。残留婦人の子どもは、日本鬼子(日本軍の子)といじめられてきたので帰国に賛成しましたが、日本では中国人といじめられ、日本人でも中国人でもないというアイデンティティの崩壊に陥っています。残留孤児の子どもは幼い年で帰国したので、日本との関係は比較的うまくいっています。
 帰国者にとって、日本語ができない、仕事がない、老後の不安などが共通する不安です。仕事につけなければ、生活保護しかありません。原告の一人は二万円の年金と生活保護七万円で、大変な生活です。残留婦人・孤児の半数以上は生活保護を受給しています。しかし、子どもの大学進学、中には高校進学で生活保護を認めない県もあります。孤児の場合、夫婦どちらかは中国人で、親族は中国にいます。養父母や親族の訃報で中国に戻ると、その時点で生活保護は打ち切りです。帰国後に再び申請しても、渡航費用を理由に再受給まで一年かかった人もいます。日本語ができず、仕事がなく、老後の生活不安、様々な偏見の中で自殺に追い込まれる人もいます。

 国家賠償の提訴に踏み切る

 中国残留邦人は国策にほんろうされ、帰国後も生活不安を抱えています。八万人をこえる署名を集めて、老後の生活保障に援護金支給の法制化を求めましたが、国会でほとんど議論もされずに廃案となりました。こんな状況を放置できないと、二〇〇一年十二月、中国残留婦人の鈴木さん、藤井さん、西田さんの三人が、国家賠償を求めて提訴しました。その後、六回の公判が開かれましたが、国は「加害責任のある公務員を特定せよ」と主張し、証拠調べにすら入れない状態です。前回の公判では、原告弁護団が「裁判長は裁判を円滑に進める責任がある」と詰めより、裁判長が謝罪する事態でした。
 国は残留邦人を置き去りにした軍人に恩給を支給しながら、置き去りにされた人たちには何の補償もせず、国の責任が明確なのに謝罪すらしていません。また、アジアの人たちにも戦争責任をはたさず、戦後補償をしていません。北朝鮮の拉致被害者への対応とはあまりに違いすぎます。明らかに政治的な利用です。
 中国残留婦人・孤児で日本に帰国した方は約六千人、家族を含めると約一万九千人です。それ以外に自費で帰国した人が四〜五倍といわれ、全国に約十万人の中国帰国者がいます。日本に幻滅して中国に戻った人もいます。帰国者は国の対応にすごい怒りをもっています。
 提訴直後は原告本人や事務所にいやがらせ、脅迫の電話が続きました。他方で、訴訟を支える会員が約四百人に増えました。拉致被害者の問題が表面化して以降、帰国者も自ら集会をやるようになりました。昨年は日中国交正常化三十周年、中国帰国者の会二十周年ということで中国東北三省を訪ねました。養父母の生活が悲惨な状況でしたので、新聞で呼びかけていくらかの援助をすることができました。
 中国残留邦人問題にご理解をいただき、ご支援をお願いします。   (文責編集部)


中国残留邦人の国家賠償訴訟を進める会
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