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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2003年3月号

空が落ちてくる

ミュージシャン  生田卍


 一月二十七日の晩は興奮でなかなか寝つけず、メールをしきりに打った。ひとつは日本での報道はかなり少なかったが、筆者もそのサポーターであるグリーンピースが、旗艦「虹の戦士」を使って英国サザンプトン港を封鎖し、補給船のインド洋回航を阻止したというニュースのせいであった。返ってきたメールにも「世界のみんなの声だ」「大きな勇気をもらった」など嬉しい言葉が踊っていた。

 もうひとつ。言うまでもなく高速増殖炉もんじゅの設置差し止めという高裁判決が出たからだった。数多い原発訴訟の中ではじめての住民勝訴である。もとより、この国の司法制度を顧みれば、司法がまっとうな判断を示して国民の生命財産を守ったことはあまりなく、たとえ下級審である程度の判決を勝ち取ったとしても、最高裁では権力側に有利な判決に泣かされることは見なれた光景である。従って、今回の判決も、国が上告した以上、最高裁判決までの「見果てぬ夢」に終わる可能性も十分にあろう。
 ただし、二〇〇〇年三月の福井地裁判決のあまりの不当性に泣いた人びとにとって、安全審査の在り方そのものを「誠に無責任で、審査の放棄と言っても過言ではない」と痛烈に弾劾した事実は小さくないだろう。この国の原発行政の杜撰(ずさん)さを裁判所が白日の元に曝け出したのだ…

 反原発に少しでも係わったものなら、原発推進側の御都合主義、非科学性、隠ぺい、言い逃れなどは日常的に見聞する。見ざる、聞かざる、言わざるの体質の下に、場合によっては経済合理性さえ度外視して原発は作られ、そして運転され続けてきた。
 原発が運転されるということはウラン258がどんどんプルトニウムに変わっていき、蓄積されるということに他ならない。耳かき一杯が東京都民の致死量に相当し、その半減期が二万四千年という史上最悪の物質の蓄積をどうするのか? この議論が果たされないままに、プルトニウムを「リサイクルする」という神話のためにもんじゅは作られた。そのもんじゅは一年しか稼動せず、あのナトリウム漏れ―火災を起こして自滅した。まっとうに考えれば今回の判決はそのとどめを刺したと言うべきであろう。

 核燃料サイクルの要のもんじゅが死んだということになれば、この国の原発政策自体が破綻を宣告されたに等しい。通常のウラニウムにプルトニウムを混ぜて燃やすという、これまた危険きわまりないMOX構想も頓挫しているなかで、それでも原発を稼動させ続けると言うのであれば、有り余るプルトニウムを軍事転用でもするのではないかと疑われても仕方があるまい。日本こそIAEAの核査察を受けるべきである。

 かつて「空が落ちてくる」というシングルカセットをリリースした。チェルノブイリの事故の後「安全な牛乳が飲みたい」とかいう調子の「反原発ソング」が巷をにぎわす中、都市の住民―消費者のエゴに依拠するのではない反原発の歌を作りたかった。
 「空が〜」の中には反原発という言葉も、いや原発という言葉さえ登場しない。原発は「海沿いの無気味なシルエット」として描かれ、そこで起こっていることの真相は付近の住民には隠ぺいされている。歌の主人公には、なにか重大な変化が起きているにも係わらず不安だけを募らせているある労働者を据えた。彼の目からいつ起きてもおかしくない事故の状況をシミュレートした。歌の最後に主人公は不安の中でひたすらに走っている。風下のほうにある保育所に預けてある子供たちへと。彼が間に合うのかどうかの答えはない。大きな不安感の中で曲は終わる。

 大変悲しいことであるが、この曲は「現実」となってしまった。
 一九九九年九月三十日の朝に起こった茨城のJCOの臨界事故である。これもまた余りにも杜撰な管理体制の下で起こるべくして起こった事故であった。貴い人命がついに失われ、数多くの住民が強い放射能に汚染された。歌の中で予言した通り、事態を一番最後まで知らされなかったのは住民であった。現場三百五十メートル以内の住民に避難勧告がなされたのは事故発生から五時間後、それが十キロに拡大されたのは十二時間後であった。その後、臨界事故で飛び散った中性子の影響をなんら科学的に考慮することもなく、そのいずれの勧告もうやむやのまま解除された。
 筆者はその事故のことが余りにも悲しく、その年の暮れ、年賀状を喪中として欠礼した。

 「空が落ちてくる」は我々を多くの旅に誘ってくれた。各地の草の根反原発グループに招かれ、原発の門前での示威演奏も含めて多くの原発現地にお邪魔した。言うまでもなく原発の建設地には過疎地が選ばれ、言わば兵糧攻めにした上で原発の推進がゴリ押しされるという構造になっていた。もんじゅもまた例外ではなかろう。今は残念ながら反原発の運動より、干潟や自然保護の絡みで旅をすることが多いが、開発にかかる構造は同じである。過疎地をねらい撃ちにして、利権と銭に群がるものたちが、自然と命を足げにしながらこの国のゆたかな風土を食い物にしてきたのだ。が、今でも地方をコンサートで訪れる時に一番嬉しいのは「『空が落ちてくる』今でも聞いてますよ」という一言である。

 もんじゅが果たしてこのまま死を迎えるのか。はたまたゾンビのように蘇るのか。先ほども述べたように、この国の司法制度を考えれば予断を許さないと言うべきであろう。運動の側から言えば、この間の東電などのあまりにもえげつない事故隠しの追求と共に原発推進政策の「息の根をとめる」闘いが必要であろう。原発建設現地の住民の生活を産直などで支える闘いや、地方選挙などと連係したきめ細かい闘いがこれからも必要であろう。

 白状するが学生の頃は若気のいたりというべきか、隊列を組んで機動隊とぶちあたってこその反原発だと思っていた。今は亡き高木仁三郎さんには手に追えないハネた学生であったろう。しかし高木さんは厳しいながら限りなく優しかった。彼の行動のすべてに地球や人びとへの愛があったように思う。そういえば「空が落ちてくる」のライナーノーツは高木さんに書いてもらったのだった。その文を、かつてのハネた学生が、音楽を通じて世界と係わろうとしていることに「期待している」と彼は結んでいる。もちろんこの期待に充分に応えて来れなかったことは自分が一番自覚しており内心忸怩(じくじ)たるものがある。が、つたない音楽であっても状況に対して発信し、歌い続けて行く以外に、望外な彼の「期待」に応える道は他になかろう。もって瞑すべし。


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