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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2002年4月号

パレスチナ紛争の平和解決を破壊するイスラエル
イスラエル支援を続けるブッシュ政権

法政大学教授  奈良本 英佑


 イスラエル軍は、今年、パレスチナのヨルダン川西岸地区とガザ地区に対して、一九六七年の第三次中東戦争以来最大規模の攻撃を続けている。西岸・ガザ地区の総面積は埼玉県程度、ここに住むパレスチナ人は四百万人足らずだ。ここに、中東最強のイスラエル軍は、戦闘機、攻撃ヘリに援護された地上部隊数万人、戦車と装甲車数百台を投入、都市・町村を占領、外出禁止令を敷き、しらみつぶしの家宅捜索を行っている。高齢者をのぞく十五歳以上のパレスチナ人男性を強制的に出頭させ、学校など公共施設で激しく尋問している。多くの地域で救急車は出動を停められ、病院や医療スタッフへの攻撃、即決処刑なども伝えられる。作戦地域からジャーナリストが追い出されているので、詳しい様子はわからない。同じ時期、パレスチナ人がイスラエルの市街地などに潜入して行う、自爆攻撃や銃乱射などで、イスラエル市民の死者、負傷者も続出している。
 暴力応酬のきっかけは、十八カ月前の二〇〇〇年九月二十八日、現在のシャロン・イスラエル首相(当時の野党リクード党首)が、約千人の護衛を連れて、エルサレム旧市街地のイスラーム聖地「ハラーム・アッシャリーフ」訪問を強行したことだ。世界のイスラーム教徒とパレスチナ人の怒りを計算したうえでの挑発だった。同年夏にキャンプ・デヴィッドで行われた、パレスチナ・イスラエル首脳交渉の物分かれで高まっていた緊張は、双方の暴力のエスカレーションをもたらした。二〇〇一年一月のパレスチナ・イスラエル集中交渉も妥結に至らず、シャロンは労働党の現職を破って、三月、首相となる。力を信奉するタカ派のなかのタカ派、かつて八二年のパレスチナ人虐殺事件の責任を問われて国防相辞任を余儀なくされた、この人物は、自らが演出した対決ムードのなかで、政権のトップに立ったのだ。
 シャロンは、イスラエルとPLOが相互承認、暴力に代わる交渉を通じての紛争解決を決めた、一九九三年の「オスロ合意」(とこれを成文化したDOP)に絶対反対だった。彼は、西岸・ガザ地区を含む旧委任統治領パレスチナ全土を、自国領土とすべきだと考える「大イスラエル主義」の代表的人物だ。かつて、農業相などを務めた時代、これら地区の土地接収、入植地建設を強力に進めたのは、自国民の移住を通じて、最終的にはこれら六七年戦争による占領地をイスラエルに併合しようとしたからだ(このようなことは、明らかに国際法違反で、アメリカも建前上は認めていない)。占領地の全部または一部返還につながるような、DOPに基づく平和交渉は、この目的に反する。そこで、挑発によって暴力の対決をエスカレートさせ、交渉の枠組みを壊し、最後に自分たちの圧倒的武力で相手を屈服させる。これが、シャロンの描いた筋書きではなかったか。
 同じ頃、アメリカでは、共和党のブッシュ政権が成立、彼の周りを、チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官、ライス補佐官ら強硬派が固めた(パウエル国務長官は例外)。諸国との協定や協調を省みず独走するこの政権は、パレスチナ問題については、「成り行きまかせ」の立場を取った。つまり、軍事的・政治的に圧倒的に強力なイスラエルが好きに振る舞うのにまかせたのだ。
 だが、当初、シャロン政権がパレスチナ暫定自治区全域の再占領、アラファートPLO議長(自治政府「大統領」)の殺害ないし強制追放まで突き進むことは許さなかった。こうしたイスラエルの計画は、たびたびリークされていたのだ。だから、昨年五月には、暴力(武力、テロ)の停止と合わせて、自治区の封鎖解除と入植地建設凍結などを含む「ミッチェル勧告」をパレスチナ・イスラエル双方が受け入れることを求め、六月には、暴力のエスカレーションを押さえるため、テネットCIA長官による調停工作も行った。紛争が中東全域に拡大、手が付けられなくなることを恐れたからだろう。
 この政権は、二つの方法でイスラエルの独走を支えてきた。一つは、膨大な対イスラエル経済・軍事援助、もう一つは、イスラエル制裁の国連安保理決議に対する拒否権発動だ。これらに手をつけ、イスラエルに片寄りすぎた姿勢を少し修正するだけで、紛争は鎮静に向かい、アメリカの「国益」にもプラスになるはずだ。しかし、それができないのは、強力なイスラエル・ロビーをかかえるアメリカの内政上の要因によるのだ。こうして、この十八カ月間、パレスチナ側は、イスラエルの過剰な武力行使、パレスチナ人家屋や農地の破壊、土地接収などに対処するため、国連安保理に対して国際監視団の派遣を繰り返し要請してきたが、いつもアメリカに阻まれた。
 たとえば、昨年十二月十五日、(1)あらゆるテロ行為、裁判抜きの処刑、過剰な軍事力の行使、大規模な破壊行為を非難し、(2)パレスチナ占領地の状況改善のために監視機構の設置を促進する―という安保理決議案は、十五票中十二票の賛成にもかかわらず、アメリカの拒否権で葬られた。要は、イスラエルが国際的な監視を望まないということなのだ。現在、紛争解決にとって最大の障害の一つになっている、占領地における入植地の新・増設についても、これを止めさせるような実効力ある安保理決議案は、必ずアメリカの拒否権でつぶされた。この政策が、現政権のもとで変えられる可能性は、限りなくゼロに近い。
 パレスチナ紛争の原因を詳しく論じる字数はない。端的に言えば、ヨーロッパで被害者だった人々が、パレスチナで加害者になったということだ。一九四八年のイスラエル建国以来の紛争が続いたのは、パレスチナ人の被った途方もない損害が償われずにきたからだ。だが、彼らは、一〇〇%の被害回復の要求を放棄し、領土で言えば、パレスチナ全土の二三%(西岸とガザ)だけでよいことにし、交渉を通じてイスラエルとの二国共存実現を目指すことにした。これが、オスロ合意=DOPに調印した当時のPLO指導部の考え方だといえる。
 だが、問題は、これが、対等な当事者間で結ばれた平和協定ではなかったことだ。付随する往復書簡で、PLOは「テロの放棄」「国民憲章の修正」など多くを約束させられたのに、イスラエルは何も約束しなかった。たとえば、あの、国際法に違反する、入植地の撤去はおろか、新増設の停止さえ明確にはうたわれなかった。圧倒的な力の差を背景に、イスラエルは、西岸・ガザ地区で、新たな土地接収、入植地建設 、自国民の移住を進めた。アメリカは、平和達成の障害となるこの政策を決して止めようとしなかった。DOPに期待したパレスチナ人たちは、この二三%の土地だけでも返ってくるはずだという希望を失っただけでなく、経済生活も悪化、憎しみを募らせた。この背景抜きに「自爆テロ」は理解できない。
 これが、三月のイスラエル軍大攻勢に至った暴力の連鎖の背景なのだ。こうして初めてタカ派中のタカ派シャロンの返り咲き、首相就任が可能になったのだ。イスラエルは建国以来、アメリカは第二次大戦後最悪の政権を頂いているように見える。四月二日現在、アラファート議長は自治政府本部の一角に監禁され、「オスロ合意」にもとづく紛争の平和的解決の道は最終的に閉ざされようとしている。一刻の猶予もない。(四月二日記)