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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2001年9月号

靖国神社とは


◆靖国神社は、明治天皇の意向で、国事に殉じた(明治維新の際の戊辰戦争で死んだ)官軍の戦没者を慰霊するために、一八六九(明治二)年、東京・九段に東京招魂社として明治政府によって設立された。一八七九(明治十二)年に靖国神社に改称。一八八七(明治二十)年から陸・海軍省の共同管理となった。
◆明治政府は、天皇家の始祖(皇祖)である天照大神を祭る伊勢神宮を頂点とする政教一致の国家神道体制をつくった。天皇のために死んだ人びとを『英霊』としてまつる靖国神社は、他の宗教とは別格の国家神道として存在し、アジアや太平洋の国々への侵略戦争に天皇の軍隊を送り出す精神的基盤の役割を果たした。
◆靖国神社には、明治維新から日清戦争や日露戦争、そして太平洋戦争までの戦没者約二百四十六万人が祀られている。しかし、原爆の犠牲者や空襲で死んだ一般国民、天皇に刃向かった戊辰戦争での会津白虎隊や西南戦争の西郷隆盛は、合祀の対象から除外。また被差別部落の人びとも排除されるなど靖国神社は、死してなお差別している。
◆国民は死んで靖国神社に祭られることを美徳と教えられ、参拝を強制された。第二次大戦の敗戦まで、天皇を現人神としてその政治的権威を宗教に基礎づけた国家神道の軍国主義的、侵略主義的側面を代表する施設であった。国家神道の政策に従わなかった大本教、ひとのみち教団、創価教育学会、日本基督教団などは、解散を命じられ、幹部は治安維持法違反等で投獄された。

◆戦後、国家神道は廃止され、現憲法の信教の自由・政教分離の原則にそって、靖国神社も一宗教法人となった。だが、その教義、祭祀、儀礼は戦前と同様に、天皇の軍隊の忠死者若しくは戦争協力者の名簿に記して祀る神道上の宗教施設のままである。境内には大砲や砲弾、人間魚雷などの兵器が展示され、境内奥の遊就館には、歴代戦争の武器や戦闘機、天皇の錦旗が飾られている。
◆一九五六(昭和三十一)年、遺族会からの「戦没者靖国合祀」の要望を受け、厚生省引揚援護局(当時)が作った戦傷病者戦没者遺族等援護法と恩給法の適用を受ける戦没者の名簿をもとに、靖国神社が合祀した。このやり方は一九七六年まで続く。一九五九(昭和三十四)年に最初の「戦犯」の合祀を行なった。
◆一九六九年に自民党が、靖国神社を内閣総理大臣が監督する機関と位置付け、靖国神社の経費の一部を国費で負担するという内容の靖国神社法案を発表。同法案は一九七四年、衆議院で強行採決されたが、参議院では否決され廃案となる。
◆一九七五年八月、首相として初めて三木武夫が参拝した。公用車を使わず、玉ぐし料を私費で払う「私的」参拝を強調した。
◆一九七八(昭和五十三)年十月、靖国神社は、密かに極東軍事裁判で有罪判決を受けた東条英機ら十四人のA級戦犯を「昭和受難者」として合祀。翌年四月に判明し、戦争犯罪人を祀った靖国への参拝は、日本が戦争を反省していない証拠との非難が侵略を受けた中国や韓国など近隣諸国からあがった。八〇年十一月、衆院で宮沢喜一官房長官は「総理大臣の参拝は違憲の疑い」と答弁。
◆一九八五年八月、中曽根康弘首相は、「さもなくしてだれが国に命をささげるか」といって公式参拝をした。参拝直後の軽井沢セミナーでは、「これが戦後政治の総決算だ。過去のことでなく、二十一世紀へ向けての前進の体制をつくる」と述べた。中国や韓国などで激しい抗議運動が起こり、翌年、後藤田正晴官房長官が、「A級戦犯を合祀していることなどもあって、…過去の戦争への反省と平和友好への決意に誤解と不信が生まれるおそれがある」との談話を発表、公式参拝は見送られた。
◆一九九一年九月には、公式参拝に違憲判断を下した岩手靖国訴訟の仙台高裁判決が確定。
◆九六年七月、橋本龍太郎首相が誕生日に「私的」参拝。
◆二〇〇一年六月、太平洋戦争で旧日本軍に駆り出された韓国人の元軍人・軍属とその遺族が損害賠償などを国に求め提訴。原告の一部は、戦死した親族の靖国神社への合祀取りやめを求めている。
◆二〇〇一年八月、公式参拝は「憲法に違反しない」と公言していた小泉首相が、内外の激しい批判を無視して靖国神社参拝を強行した。