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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2001年1月号

代表世話人からの新年メッセージ

すぐお隣の国と

伏見 康治


 新年を迎えて私は九十二歳になる。ひと月程前「科学技術史学会」なる会合で、昔大阪大学理学部物理教室で湯川秀樹さんがノーベル賞受賞の栄誉を得られた論文を発表された、その前後の話をした。その時ギョッとしたのは、そこに登場する同僚たちが全部故人となっておられることであった。一番長く強く生きた武谷三男も去年逝ってしまった。
 先日あるクラブで七十歳代の方と話をしたが、関東大震災を御存知ですかときいたら、まだ生まれていませんでしたと言われて、ギクッとした。大正十二年(一九二三)九月一日昼前、伏見家は芝二本榎の丘の上にあり、石燈籠が倒れ屋根瓦がずり落ちただけで済んだが、下町はひどかった。中学一年のわんぱく盛りで、桜田門近くまで「探検」に行ったが、帝国劇場がボンボン燃えているのをお堀越しに見て、こわくなり、逃げ帰ったことを憶えている。
 九月二日の夕暮、朝鮮人が暴動を起こして攻めてくるという噂が風のように走り抜けて行った。口から口へ伝えられる噂の速さが、こんなに速いものだとは、知らなかった。親父はなげしから刀をおろしたり、槍を構えたりしていたが、やがて女子供は高松邸に逃げこめと言う指令がきて、私と姉妹は母を連れて伊皿子近くの高松邸の庭に逃げ込んだ。この時の母の歩き方は、文字通り「足が地につかない」状態だったことを想い出す。暫くして「十四歳以上の男子は防衛隊を組織するから出てこい」というアナウンス。姉が「貴方はまだ十三だから出なくてよいのよ」と言うのを、押し切って出ようとしていたら、朝鮮人の襲撃はデマだったというアナウンスがあって、やれやれと無事にわが家にもどったのだった。これで私の経験の範囲内では、朝鮮人問題は過ぎ去ったわけだが、新聞にはいくつかの悲惨な事件が伝えられた。数日後には甘粕憲兵大尉が大杉栄なる社会主義者を殺害した事件が報じられた。震災による死者不明者の数、十四万人という異常状態の中で何が起こるか、わからないのだった。
 異常の時に正しく行動することはむずかしい。それ故にこそ、平常時に私たちは正しい道をたどれるように心掛けるべきではなかろうか。日本国内には、南も含めて朝鮮半島の方々が沢山活動している。南の方々との交流も今までは滞り勝ちだったが、金大中さんの太陽政策で非常に自由になってきた。北の方々の相当多くの方々が、現に国内で活躍されておられる。その方々はひんぱんに祖国を往来しておられる。それなのに半世紀たったいまでも国交が回復していないのはどういうわけか。遠いアフリカの発展途上国とさえ色々国交があるというのに。昔から、陰にせよ陽にせよ、深い交わりのあるすぐお隣の方々と、どうして距離を置いてきたのか、置いてきているのか、それを解く始めの年にしてもらいたいものである。