国民連合とは月刊「日本の進路」地方議員版討論の広場集会案内出版物案内トップ  

自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2000年11月号
 

教育改革と教育基本法改正


九州・沖縄平和教育研究所 梶村 晃


 森首相の私的諮問機関である「教育改革国民会議」(以下、国民会議という)が本年七月二十六日に分科会報告、つづいて九月二十二日に中間報告として「教育を変える十七の提案」を行った。以下その問題点に触れていきたい。


 教育改革国民会議とは何か

 この国民会議は本年三月二十四日、小渕前内閣総理大臣決裁により設置された。その内容は、
 1趣旨。二十一世紀の日本を担う創造性の高い人材の育成をめざし、教育の基本に遡って幅広く今後の教育のあり方について検討するため、内閣総理大臣が有識者の参集を求め、教育改革国民会議を開催することとする。
 2開催要綱。国民会議は、別紙に掲げる有識者により構成し、内閣総理大臣が開催する。内閣総理大臣は、有識者の中から、国民会議の座長を依頼する。国民会議には、必要に応じ、関係者の出席を求めることができる。
 3庶務。国民会議の庶務は、内閣官房内閣内政審議室教育改革国民会議担当室において処理する。
 となっている。この国民会議の設置は法律によるものでなく首相の決裁によるものである。したがって私的諮問機関と言われる。
 国民会議の有識者と称するメンバーは二十六人。大学教授、財界人、教育行政関係者、その他で構成されているが、教育現場からは一人、一般庶民の名前はない。これでは教育危機を打開するといっても、子どもの側から、また教員の側からの視点も欠落し、国民会議とは言っても国民不在の論議にしかならない。
 審議は三月末から九月まで約六ヵ月足らずで中間報告を行い、この後、期日は明示されていないが最終答申を出すという。これではあまりにも拙速である。先に結論ありきと言われても仕方あるまい。
 なぜ、国民会議は法律的に根拠もなく、教育現場をほとんど知らないメンバーで、短期間に審議を急ぎ、二十一世紀へむけての教育の方向を結論づけようとするのか。あまりにも無謀すぎる。森首相は来年一月からはじまる通常国会を「教育改革国会」と位置づけ、その成果を参院選にむけてアピールしようとしている。あまりにも政治的すぎる。


 中間報告は何をねらっているか

 中間報告では日本の教育危機について「いじめ、不登校、校内暴力、学級崩壊など教育の現状は深刻である。日本人は長期の平和と物質的豊かさを享受することができるようになった一方で、自分自身で考え創造する力、自分から率先する自発性と勇気、苦しみに耐える力、他人への思いやり、必要に応じて自制心を発揮する意思を失っている。…」などと述べている。これらは子どもの皮相的な現象をとらえているに過ぎない。本気で教育改革を考えるなら、なぜそのような現象に立ち至ったのか、そしてこれまでの教育行政に誤りはなかったのかといった総括、反省があってしかるべきである。このような教育の現象面しか述べない手法は、今までの中教審答申や臨教審答申においても顕著にみることができる。
 それでは「十七の提案」の中からかれらの意図を見ていこう。


 1、提案では「人間性豊かな日本人を育成する」として、教育の原点は家庭、道徳教育の強化、奉仕活動の義務化、問題を起こす子どもの対応などをあげている。
 教育の原点が家庭にあることは否定しない。企業の教育休暇制度導入は原則的には賛成する。しかし、公教育のしくじりを家庭に持ち込み、その責任を転嫁しているように思えてならない。それにしても親や家庭の責任をやたらと強調しているが、親のない子、家庭が崩壊している子どもたちについてはどのように考えているのか。一切ふれられていない。
 公権力が家庭にどのような価値観を求めているのかは不明であるが、学校の道徳教育の強化とあいまって、一定の価値観(思想)を押しつけてくることは十分に考えられる。国旗・国歌法制化の延長として、国民意識の統合を促進するのではないだろうか。
 このことは、小・中学校二週間、高等学校一ヶ月間、さらには満十八才の国民すべてに一年間の奉仕活動の義務付けに至って一層鮮明になってくる。奉仕といえば戦中の勤労奉仕、義務化といえば徴兵制をイメージする人も多い。奉仕は本来、本人の自主的、主体的なものでなければならない。他から強制されるべきものではない。奉仕義務化で求めているものも公共の福祉とか公徳心とかいった一定の価値観であろう。そこでは「人権思想」はどうなっているのか。
 つぎには「問題を起こす子ども以外の子どもたちの教育環境を守る」と、もっともらしい提案をしている。この真意は一定の枠内に入らない子どもは排除するという論理である。
 このように提案をみてくると、そこに求められているものは国民統合の意識形成であり、一方ではそれに反するものは排除するという姿勢が浮かび上がってくる。


 2、つぎに提案は「一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む日本人を育成する」として、個性を伸ばす教育、大学入学年令制限の撤廃、大学入試の多様化、中高一貫教育などをあげている。さらには小学校就学年齢の弾力化などにもふれている。これでいくと十五才の大学生が誕生する。中高一貫教育については公立高校の半分程度とするとしているが、他の半分は切り捨てられるのか。
 これらはエリート養成のためのもの以外の何ものでもない。国民会議設置の趣旨が前に述べたように「二十一世紀の日本を担う創造性の高い人材の育成をめざす」としているように、エリート養成こそが、国民会議のねらいそのものではないか。


 3、提案は「新しい時代に新しい学校づくりを」にふれて、教員の評価体制の強化、学校評議員制度、学校・教委に組織マネジメントの導入などをあげている。
 この中で教員については評価によって、転職を命じたり、退職の措置をとるとしている。一体、誰がどのような物差しで教員を評価しようとするのか。お上にさからう教員の排除がねらいではないか。学校評議会制度など親や地域が参加して、学校運営にかかわり学校評価をすることも提唱しているが、素直に受け入れ難い。ここにも一定の価値観による地域からの締めつけと排除の論理が秘められているように思えてならない。そんなことより教育委員の公選制こそ取り上げるべきではないか。
 学校・教委への組織マネジメントの導入は、あまりなじまない用語であるが、つまるところ企業経営の論理を導入するということである。かつて学校に重層構造論という企業の人事管理方式が導入され、管理体制が強化されたことがあった。それが人事管理だけでなく企業経営論が全面的に入ってくると、学校は人間を製品としてつくりだす工場と化してしまう。どんな製品を誰が求めているのか。


 4、最後に教育基本法改正についてふれておきたい。
 分科会ではかなり教育基本法改正へむけての積極論が出され、第一分科会報告には「教育基本法の改正が必要であるという意見が大勢を占めた…」とされていた。しかし、今回の中間報告では必ずしも有識者の意見が一致せず、「教育基本法改正については……幅広い視点からの国民的な論議が必要であり、…各方面で様々な論議が行われることを希望する」とトーンを下げている。
 森首相はこの取り扱いに甚だ不満であり、教育基本法改正については、中教審にはかって、次期国会にむけ改正に意欲をもやしている。