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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2000年8月号
 

広範な国民連合福岡第八回総会記念講演
九州・沖縄サミットに問う―沖縄の心と日本の進路

沖縄大学法経学部教授 佐久川政一


サミットは基地移設のためのアメ

 なぜ沖縄でサミットなのか。日本政府は日米基軸・安保条約を堅持するため、米軍基地の安定的確保に全力を傾けています。そのためには金に糸目をつけない。福岡開催が有力だったサミットを沖縄に決定した裏にはそうした政治的なねらいがありました。県内移設、沖縄の基地固定化のためのアメです。
 クリントン大統領は「基地問題が解決しなければ沖縄に行きたくない」と発言しました。「普天間の移設先を早く決めなさい」という日本政府への圧力です。これを受けて日本政府は沖縄に圧力をかけ、稲嶺知事は移設先を「名護東海岸」と決定しました。小渕内閣がこれを閣議決定し、名護市長が受け入れ表明しました。これまで沖縄の基地は「銃剣とブルドーザー」に象徴されるように強制的につくられてきましたが、今回は沖縄の自治体として初めて基地建設を表明しました。振興策と引き替えに基地を容認する稲嶺知事のやり方は物ごい政治であり、市民や県民の意思に完全に反する行動です。県民投票でも名護市民投票でも、基地の整理縮小が県民の世論です。移は県外、国外にすべきです。

出発点はアジア太平洋戦略構想

 日本の政治は右傾化し、軍事大国化の道へ向かっています。昨年の国会では、自自公という数の力で周辺事態法、通信傍受法、国旗国歌法などの悪法が、国民的な議論もなく通りました。沖縄の米軍用地特措法も地方分権一括法の中で、「国が必要と認めた土地については自治体の意思に関係なく収用できる」という内容に改悪されました。
 こうした一連の流れの出発点は、一九九五年二月にアメリカが打ち出した「アジア太平洋戦略構想」です。冷戦後のアメリカのアジア戦略で、アジアに十万人の米軍(うち在日米軍は四万七千人)を維持するという内容です。これを前提に九六年四月、日米安保共同宣言が発表されました。この共同宣言を受けて、ガイドラインの見直しが決定され、そして周辺事態法がつくられました。
 冷戦崩壊後、アメリカは国内の基地をどんどん減らしています。兵隊の数も二百十万人から百五十万人へ、六十万人も兵力を削減しています。八年前にフィリピンのスービック海軍基地とクラーク空軍基地から完全に撤退しました。基地の跡地は、経済特区になっています。米軍基地を安定的に提供することだけ考えている日本政府はだらしない。日本は本当にこれでよいのか、もう一度考え直す時ではないでしょうか。

大田県政の平和政策

 九五年九月に沖縄で米兵による少女暴行事件が発生し、県民の怒りが爆発しました。十月二十一日の県民大会には与野党問わず八万五千人が集まりました。大田知事が代理署名を拒否したことも合わせて、沖縄の基地問題が全国の人たちに理解されるようになりました。九六年九月に行われた県民投票は、投票者の九〇%、全有権者の過半数が「米軍基地の整理縮小に賛成」「地位協定の見直しに賛成」で、県民の意思が明確に示されました。また九七年十二月に行われた名護市の市民投票では「基地移設に反対」が過半数を占め、市民の意思が示されました。
 大田知事の平和行政は三つの特徴がありました。一つは糸満市の摩文仁の丘の「平和の礎」。沖縄戦で犠牲になった二十三万余の人々の名前が刻まれています。日本兵や沖縄住民だけでなく敵である米兵の名前も刻まれています。「命どぅ宝」(命こそ宝)の精神です。二つ目は「平和祈念資料館」。構想は大田県政時代でしたが、引き継いだ稲嶺県政が平和祈念資料館の展示内容を改ざんしました。沖縄戦の歴史的事実をわい曲する内容で、県民から大きな抗議の声が上がりました。稲嶺県政の姿勢は、皇国史観あるいは最近の自由主義史観に通じるものがあります。三つめは「国際平和研究所」の設立。構想段階で県政が代わり、稲嶺県政がやらないので、民間の力で平和研究所をつくりました。

嘉手納包囲で平和の心を発信

 七月二十日に嘉手納基地を包囲する「人間の鎖」行動を行います。サミットを前に、「サミットで沖縄の基地問題が取り上げられるのではないか」という錯覚をもっている人がいます。そもそもサミットは、一九七三年の石油産出国の原油引き上げに対抗するために七五年に先進国が集まったのが始まりです。世界経済を支配している経済先進国の会議ですから、基地の重圧が軽くなるどころか、むしろ逆のことが考えられます。「平和の礎」でクリントン大統領の演説が予定されています。基地の重圧を受けている沖縄の県民に感謝するという。つまり、沖縄に米軍基地があるからアジアの平和が維持されているという論理です。これがクリントンや日本政府が考えている「平和の発信」です。
 われわれの考えている平和の発信はまったく逆です。戦後五十五年も経っているのに沖縄には米軍基地が居座り続け、独立国である日本の主権と県民の人権を侵しています。小さな沖縄に在日米軍の七五%が集中し、この重圧の中で事件・事故が相次ぎ、県民の命と人権が侵害され続けている。この基地の重圧の実態、基地問題の解決を先進国首脳や世界中から集まるマスコミに伝えたい。七月二十日、午後二時、二時半、三時の三回、人間の鎖で嘉手納基地を包囲して、世界中に平和の心を発信します。
 琉球王国は武器をもたず交易で栄えてきました。廃藩置県で琉球が日本に併合されて沖縄県になったのが明治十二年です。明治八年に始まる琉球処分の結果です。昭和十九年に日本兵が十万人配置され、地元の十五才以上の防衛隊一万人も含めて合計十一万人。これに対して、五十四万人の米兵が攻撃してきた。三ヶ月以上にわたる沖縄戦に住民が巻き込まれ四人に一人の住民が、日本兵、米兵も含めて、小さな島で二十万人以上が犠牲になりました。軍隊は住民の生命も財産も守らない、逆に生命と財産を奪った。これが沖縄戦の教訓です。
 核を含む力による安全保障から、人間の安全保障、非暴力による安全保障が二十一世紀には不可欠になると思います。その意味では日本国憲法は重要です。九五年の少女暴行事件から二年目の九七年、サミットが開かれたデンバーに行きました。現地の集会で沖縄の基地問題を話しました。話し終わったらたくさんの人が「私たちの国の兵隊が少女に暴行をした。心から謝罪したい」と握手を求めてきました。一般のアメリカ市民は良心を持っています。平和を守る世界の憲兵と言っていますが、実際はアメリカの国益を守る軍隊です。国益にならなければ何もしません。
 「憲法九条の会」のオーバビー教授は「憲法を改正しないでほしい。二十一世紀には憲法九条は世界の宝になる」と言っていました。ハーグの世界市民会議でも日本国憲法は高い評価を受けました。ところが日本では憲法改正の動きが強まっています。沖縄は日本に復帰しましたが、日本国憲法がまだ適用されておらず、違憲状態が続いています。憲法の精神を活かして、これからも沖縄の基地問題を闘おうと考えています。
 最後ですが、沖縄の基地問題は沖縄だけの問題ではなく、日本全体の問題です。共に闘っていきたいと考えています。  (文責編集部)