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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』1999年10月号
 

「ここまで来たら、市長リコールやで」
神戸市営空港計画・住民投票運動の4年半

神戸市会議員(無所属・住民投票議員団) 浦上 忠文



 あの阪神淡路大震災から4年9ケ月、神戸市営空港建設をめぐる市民と市長当局との対立は、いよいよ深まるばかりです。「住民投票で決めようではないかという、真に主権者の意思を尊重する民主主義か。いったん震災前に議会で決めたことだからという、形式的民主主義か」の対立です。
 この9月13日に、市は、神戸港を埋め立てる工事を始めました。私たちは、同僚の住民投票派市議の持つヨットで工事現場に押しかけ、「市民の声に耳を傾けない空港計画に反対。すぐに着工を中止せよ」と強く訴えました。神戸空港計画をめぐる住民投票運動は、1997年の市長選挙、1998年の住民投票条例直接請求、1999年の市議会議員選挙、自主管理市民投票運動を経て、さらに、次のラウンドへ突入です。
 あの震災直後、4000人近い犠牲者のお葬式もろくろく済んでいない時に、市長は「神戸空港は市民の希望の星だ」と発言しました。震災前からも必要性や採算性に疑問が投げかけられていた神戸空港問題が、被災者の心を逆なでするような市長発言で一気に政治課題にわきあがってきました。直後の市会議員選挙を経て、空港反対派は、72名中、1名から19名に増えました。私も「市営空港は、住民投票で」を公約に、サラリーマンから市議に転身した議員です。しかし、その後の議会での最大課態は被災者支接で、空港はサブテーマでした。その2年後に市長選挙があり、住民投票を掲げる候補を押し立てて戦いましたが、市民は生活再建に忙しく、空港は大きな争点になりきれませんでした。それでも、53名の市議会与党会派の推す現役市長に対して、22万5000票対27万票という大健闘の市長選となりました。
 それから空港問題は、政策論争から、政治闘争へ、火の点いたように燃え上がって行きました。昨年の夏には、「神戸空港の建設の是非を問う住民投票条例」の制定を求める署名活動が行われました。おとなしいといわれる神戸のようなまちで、名前を書いて、生年月日を書いて、印鑑まで押す署名が集まるだろうか。人口が150万人もの都市で署名集めのシステムが成り立つだろうか。などと、おっかなびっくりで始めた活動でしたが、なんと予想を越える、31万もの署名が集まりました。有権者の27%にあたります。当選した市長の獲得した票を4万も上回りました。
 これだけ署名が集まれば、かたくなな市長も与党議員も住民投票条例を採択するのではないかと淡い期待を持ったものです。しかし、世の中は、そんなに甘いものではありませんでした。11月の臨時市議会で、ろくろく議論もしないで、議会運営の慣例まで打ち破り、委員会で強行採決を行い、否決してしまいました。私は、無所属の議員ですが、有志7名を募り、その名もずばり「住民投票議員団」という会派を結成しておりましたが、強行採決に抗議して、本会議をボイコットしました。今、思い出しても納得がいきません。もっと話し合うという約束を破り、いきなり採決を行い、同僚議員の「動議、動議。休憩動議」という発言を無視したのです。委員長は、後に「聞こえなかった」と弁明しましたが、ビデオを見ても、はっきりと聞こえています。
 それより先の、市長が条例案にたいして述べた意見も、奇妙きわまりないものでした。「神戸空港計画が構想段階ならともかく…」と言うのです。「市長の言う構想段階とはいつですか」と尋ねると「終戦後まもなくの復興計画です」と、しゃあしゃあと答えるのです。私は、昭和21年生まれですから、生まれて直ぐに市会議員になり、住民投票条例を神戸市議会に提出しなければだめだったのです。さすがに当局も、終戦後案は訂正しましたが、それでも「構想段階なら住民投票が可能で、その後では不可能だ」という市長の意見には納得しかねます。むしろ、住民投票は、事業が固まり、あらゆる情報が開示されて初めて成り立つものではないでしょうか。構想段階での住民投票は、判断する材料が乏しくて、賛成も反対も言うことができないのではないでしょうか。
 いずれにしても、住民投票条例制定の要求運動は、敗れてしまいました。
 この春の市会議員選挙で住民投票派を一気に増やすという望みを持った市民の方もおられましたが、市議レベルの選挙で、いきなり立候補して当選することは極めて難しいものがあります。現職の地縁、血縁、与党派として築きあげた組織は強固です。しかも、政令指定都市は行政区単位の中選挙区です。空港問題だけを掲げて、新人議員がわしゃわしゃ当選できるほど甘くありません。それでも、25歳と15日の全国最年少議員も含め、住民投票派が4名増えました。19対53が、23対49になりました。ほんの少しの前進ですが、はっきり言って敗戦です。
 敗戦選挙後、毎日のように市長リコール派と慎重派の議論が戦わされました。慎重派の主張は、仮にリコールが成立して市長を取っても、少数与党ではいかんともしがたい。2年後の市長選挙までに市民が力をつけることが大切だというものです。リコール派は、とにかく戦い続けることが真の民主主義を勝ち取ることの道につながるという主張です。私たちは市長リコール派です。
 結局は中間をとって、自主管理の市民投票を行おうということになりました。行政が、住民投票をやらないのなら、市民でルールを決めて、賛成か反対かの投票を行い、その結果を市長と議会にぶつけて活路を開こうという活動です。法的な根拠がないことをやって何の役に立つのかという意見もありましたが、「とにかく市民が先頭に立って戦おう」という意見には、多くの人々の胸を打つものがありました。この7月から8月の夏真っ盛りに運動は行われました。
 結果は、1ヶ月で21万人の有権者の方が投票され、何と予想を上回る94%の反対票が集まりました。しかし、この投票用紙を市役所に届けた住民投票の会の代表者に、いまだに市長は会おうとしないのです。無視を決め込んでいます。
 併行して、9月には、臨時議会の招集を求め、再度、住民投票条例を議員提案しました。驚いたことに、条例反対派は、議会での議論にまったく参加しませんでした。対立はいよいよ深まってきました。23票対48票で敗れましたが、「市長リコールヘ」と、私たちの意気は、さらに燃え上がっています。
 神戸空港計画に対する疑問は、次の3点に集約できます。神戸市財政は危機的な状況で、しかも近くに関西空港や伊丹空港があるのに、3000億円もかけて、なぜこんな大事業に取り組むのか。採算性や需要予測の計算がいいかげんに過ぎるのではないか。なぜ、市民に情報を示さないで、勝手に事業を進めるのか。というものです。
 環境を破壊する無駄な公共事業計画は、どこの都市でも起こっていることでしょう。そういった行き詰まった日本の政策決定システムを、震災にあった神戸から変えて行きたい。主権者中心の民主主義に変えて行きたいという思いが、私たちのエネルギー源です。
 それが成り立つ時、あの震災時、全国から寄せられた皆さまの支援に対するいちばんのお礼になるのではないかと考えています。
 神戸という毛細血管から、日本という心臓を直して行くことも出来るのではないかと強く心に誓っているところです。