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『日本の進路』地方議員版 第4回全国地方議員交流会報告特別号(2006年12月発行)
【第4回全国地方議員交流会 講演1】
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今日のこのような政治の第一線に居られる方たちの集まりで、お呼ばれ頂いたことは私にとって極めて光栄に存じます。また、日頃、市民社会のために全力をふるっておられる方々をお相手にお話しするわけですから私も、心の底から訴えたいと思います。
私は1924年生まれで82才、今日が誕生日です。本当の戦中派で、戦時中の幼い「小国民」でも、「予備役」の年輩の方とも違い現役で兵隊にとられた歳です。旧制の高等学校の学生でしたから思想形成期を迎えていまして国家とは何か、国民と国家の関係はどうあるべきか、戦争で国民の一人としてどう生きていくのが正しいのか、どう死ぬのか、十分考え、苦しみ抜きその回答のないまま兵隊にとられ、わずか2週間で、前線に送られました。船が無くなり、戦地には出すことが出来ない状況ですから、戦地に本当に送られたとのは私の年代でおそらく最後だろうと思います。私は戦地で戦い、負傷もしました。昔は高等学校に入るのは、難関で競争率が7倍とか8倍ありました。しかし、高校での勉強はそんな受験勉強どころの騒ぎではございませんでした。別に授業に毎日努力をするということではなくてあと2年で死ぬんだから、2年の間に学ぶべきこと、あるいは読んでおくべき本は読まなくてはならない。そういう焦りでそれこそ、一分の時間も惜しんで勉強しました。当時の旧制高校は軍とか政治というものには距離をおいており、例えば歌を一つとって見ても、明治以降の寮歌しか歌いませんでした。しかも、泣きながら歌っていました。ただ私は兵隊では本当の戦闘部隊だったために、五味川純平や野間宏さんの書いておられるようないわゆる軍隊のいじめというのは知りません。そんないじめなんというのはできっこ無かった。兵隊の方が完全武装していてその晩に戦争になるかも知れない、そんなときに星一つ上だからと古い兵隊がわれわれを殴るなどということは全然出来ませんでした。そういう意味では戦争体験といっても色々人によって立場によってあるいはどこにいたかによってずいぶん違います。私はニューギニアで餓えにさまよい、インパール作戦で餓死するだとか、硫黄島、沖縄の様な激しい彼我の火力の差が大きすぎる様な戦闘には参加していません。極めて古典的な戦争に参加しておったといってもいいわけです。妙な言い方ですけれども、8月15日に終戦になりますときには、中国の日本軍は壊滅しておったわけではありませんでした。中国全土を占領し、作戦を実行する力も持っていました。
戦争を起こすのも人間ならばそれを止めることが出来るのも人間
皆さん方は国民代表として市民の代表としてご活躍の方ばかりです。戦争と人間の関係につきましては、一つ完全な座標軸を持っていただきたいと思います。戦争は天災地変ではございません。戦争を起こすのも人間ならそれを許さない努力ができるのも人間です。これが、私が戦争体験をして身につけた座標軸です。例えば経済の問題を一つ考える場合でも、それは市場に任せた方がいいという問題じゃなくて、福祉や教育というのは人間の仕事です。人間の努力でしか獲得出来ないものを市場原理主義的にあたかも市場原理に任せればうまくいくというような言い方には我慢がなりません。政治をないがしろにした考え方だと思っています。
先ほどお話ししましたように、私は終戦を戦地で迎えました。ただ完全に武装を解除されましたのは11月です。これは皆様方、意外な感じをもたれるかも知れません。8月の15日には占領軍だった部隊は殆ど武装解除されました。戦闘軍は武装解除されず、解除されないどころか、中国内戦、国民党と共産党軍の戦いに巻き込まれしまいました。私たちは11月には解除になり、そこで何千人という単位で俘虜収容所の生活をし、そこで旧日本軍の間では激論が戦わされました。当時日本の政府と軍の幹部は「敗戦」という言葉は使わず「終戦」といっていました。それに対して、士官学校を出たような職業軍人は激昂して卑怯な言い方だと明らかに負けたのに「敗戦」と何故言えないのかという声が非常に強かった。ところが、大部分を占める戦闘部隊は特にそうでしたが「終戦」で結構だと二度と戦争をせず、よその国の人民を苦しめるようなことをすべきじゃない。そういう意味で我々の部隊は殆ど全員が「終戦」の方に傾きました。翌年の5月、私たちが中国から復員船に乗って帰って来ると、すでに日本国憲法草案が発表されておりました。それまで天皇の詔勅だとか大本営発表の言葉しか目にすることが出来ない状況であったから、その憲法の言葉には心に響くものを感じて、涙しました。特に9条2項に二度と戦争をしないということをはっきり明示している。これは300万人の兵隊を失い2000万人から3000万人の中国人民を中心としてアジアの人々に被害を与え、最後の広島・長崎で一瞬のうちに20万人を失った日本人の叫びだったわけです。同時に贖罪の気持ちもものすごく持っておりました。中国戦線で戦ってきた我々としては、どの面下げてこれから中国人と会えるのか、日本国はどう謝ろうとするのか。それだけに9条2項に関しては非常に思い入れが強く、私たち復員軍人だけではなく、当時の毎日新聞のアンケートでは、9条に関しましては9割まで国民は賛成していました。確かに憲法の色々な諸権利あるいは理念は沢山の血を流して戦い、手に入れた理念です。「自由」や「人権」という理念はフランス革命やアメリカ独立戦争の中で獲得したものです。ただ9条2項は日本が血を流し贖罪の気持ちにかられて支えてきた特別の理念です。しかし、率直に申し上げて、日本の支配政党は一度も「戦争放棄」を決意しなかった。60年間そのねじれが続いています。憲法を改正せず、憲法の解釈を変えるというやり方で自衛隊を作り、米軍との間でガイドラインを論議し、特別措置法を作り、有事立法を作り、ついにはイラクまで自衛隊を出してしまいました。そういう意味では9条2項の旗はすでにもうボロボロです。あれ以上破りようがないほど、完全にボロボロになりました。しかし、旗竿は国民の手にしっかり握られており、もぎ取ることは出来ません。
9条2項は日本独特の理念
もう一つ申し上げておかないといけないのは、あの9条2項というのは正義の戦争も認めないという極めて思い切った理念で、現在の世界共通の理念ではありません。中国は共産党が指導し、抗日救国戦争を戦い日本に勝ち全土を解放しました。その国に向かって正義の戦争はないということは非常に難しい。フランスではドゴールなどのレジスタンス思想があり、「平和主義」という言葉はソルボンヌの大学で憲法問題を論議するときにも、全然使いません。「平和主義」という言葉は1938年のフランスのダラディエ首相とイギリスのチェンバレン首相がナチスヒトラーに妥協したミュンヘン会談でその英仏の「宥和政策」を批判する軽蔑用語として最初に使われました。9条2項の理念が成文化されている憲法としては日本が唯一だと言ってもいいんです。コスタリカが似た憲法を持っておりますが、世界のプレイヤーとしての国としては全く日本独特の理念です。ここで我々がこの旗竿を離してしまったら地球上からこの理念は消えると言っても過言ではありません。また、軍産複合体が経済をリードしている国で憲法9条2項の様な理念を憲法に書き込むことは全く考えられません。その意味では世界でたった一つの理念です。しかし、21世紀のあり方を考えた場合に、この理念は捨てるどころか、これこそ21世紀の国家の理念、憲法の理念としては最高じゃないのか、21世紀の課題というのは世界から貧困を無くし、また、疫病を無くし飢餓を無くしそのためには世界の平和という問題は明らかに違った角度で照らされていくことと思います。今、日本がこの9条2項を捨ててしまえば、その理念は地球上から無くなるというそれほどの貴重な理念です。しかし、日本の支配政党は一度もそれを崇貴なもの尊うべきものとせず、立党の精神で、憲法改正ということを言っております。また、普通の国という言葉が常識のように使われ、軍がないことが欠陥の様に思っております。軍がないために他国になめられるのじゃないかという発想さえ出てきています。平和憲法を持っている以上は敵国というのはあり得ません。最近では閣僚まで先制攻撃でも辞さないような言葉を使っています。日本は戦争をしないと決めている国です。この理念がどれだけ社会的、国際政治的に大きなものであるかはお分かり願えるだろうと思います。
戦争の三つの特徴
私は一人息子の夫婦が亡くなり、孫娘を自分の子どもとして育てております。その娘に戦争体験だけを話しても通じません。そこで、私たちは戦争体験を伝えることの大事さと同時に、戦争とは何かということをもう少し普遍的に話す必要があるということを痛感しております。私は戦争の三つ特徴を言っております。一つは「勝つため」ということが最高の価値になる。自由や人権の尊さを知っていても、戦争になれば、「その話は勝ってからだ」ということになります。「欲しがりません勝つまでは」というのはご年輩の方は皆さんよく覚えておられる言葉です。戦争の第一の特徴は価値観が転倒するということ、もっとも尊い命でさえ、敵の命は勿論、味方の命も犠牲にして勝つためにということが第一のものとなる。二点目は戦争となれば、全てが動員されるということです。武力はもちろんのこと労働力、中小企業もあるいは商売をやっておられる方も全部軍需工場に動員されるか兵隊として動員されました。女学校の一年生でも、女子挺身隊と称して軍需工場に動員されました。労働力とか戦力だけではなくて、怖いのは学問が動員される。戦争には医学、生理学、物理医学、化学、大量殺人兵器は戦争毎に生まれて来ます。もっと厭なのは社会科学も歴史学も動員される。例えば日本は「神国日本」という歴史観しか使えなくなった。ドイツの様な文化水準の高かった国でも、歴史観、民族観の歪みのためにいまイスラエルに対して一言もモノを言えないほど傷跡を残しています。それが戦争です。三つ目には、あらゆる指導権が戦争を指導する部門に移ってしまいます。戦争指導部が政治、行政、経済を指導するという形に変わってきます。この三つが戦争の特徴で、戦争をしているアメリカにはその三つの特徴がそのまま出ています。小泉さんが絶えず「アメリカの敵は日本の敵だ、アメリカの国益を守ることは日本の国益を守ることだ、なぜなら日米は価値観を共有している」といい、マスコミも同調しています。平和憲法を持っている国と戦争している国の価値観が一緒だというのは無理があり、いろんな現象を説明できません。日本とアメリカは価値観を共有しているという言葉で全てを説明しようとしてきましたが、その破綻がいろいろな形で出てきています。もう一つアメリカの動員体制、これも徹底しております。ただ規模が大きすぎて目に入らないということさえあります。具体的にいうとアメリカはイラク戦争の張本人であるウォルフォビッツを世界銀行総裁にして世界金融を押さえているわけです。アメリカが財政破綻しないようにどうやっていくのかというのが、今の世銀の役割です。もう一つはアメリカの国連代表。国連にアメリカ批判をつべこべ言わせない、最も国連嫌いで有名だったボルトンを国連代表にしています。大西洋の米英同盟は完全な軍事同盟になっております。イラクで本当に戦っていたのはアメリカとイギリスの軍隊だけです。太平洋では日米安全保障条約があり、日本をどう動員するかがアメリカとしては極めて大きな問題です。米軍と自衛隊の一体化という論議も行われておりますが、憲法を変えないと出来ないところまできています。アメリカからの動員要求というのは日本の国内の改憲派の問題以上に大きな現在の改憲問題の本質です。その意味では憲法のこの理念を日本の国民が離すか離さないかは非常に大きな問題です。
「改革」政治の問題点について
先ほどから、地方自治体の代表の皆さん方のお話を伺っておりました。今のままでいいと考えたおられる方は一人もいらっしゃらないということも確認できました。ただ日本は価値観がアメリカと一緒じゃないということを経済の問題でこそ明確に言いたい。日本は修正資本主義でここまで来ました。資本家の利益のために日本の資本主義はあるのじゃないというのが日本の考え方です。日本が資本主義であることは間違いありません。しかし、アングロサクソン型の覇権型の資本主義ではありません。経済成長の成果は税制、財政を通じて、国民に出来るだけ平等に配分しよう、決して資本家のための資本主義は日本は目指さないという形で、世界で第二位の経済大国になっているわけです。これには恵まれた条件が沢山ありました。その条件は今は全部逆転しました。例えば戦後復興時には500万人に近い復員兵が最優秀の労働力でした。その後は集団就職という形で、地方からどんどん日本の産業界には新しい労働力が注入されて行った。アメリカはじめ、どの国も日本が生産を増やし、輸出を増やし貿易立国でやっていくことに文句が出ない様な国際環境でした。その状況が一変した以上はどうしたらいいか「前川レポート」だとか、「平岩レポート」だとか、日本はどうすべきなのかと悩んでおりました。同時に、猛烈な勢いで成長した日本経済は猛烈な大きさのバブルの原因エネルギーを抱え込んでおり、これが爆発しました。今後はどういう形をとるべきか悩み抜いていた、それがいわゆる「失われた10年」といわれる時代です。その閉塞状態に耐えかねた国民に対して、「改革」という言葉だけで小泉さんは出てきた、誰のための改革か改革のあとはどういうビジョンを持っているのか一度も言っていません。しかし、絶えず改革という言葉の先頭に立っていたことは事実です。それが国民の人気を呼んだ。おりしもイラクで戦争が始まった。この二つがぶつかってしまった。経済の方は竹中さん以下に丸投げの格好です。キーワードは三つあります。一つは市場原理主義といわれ、市場に全てを任せようという姿勢です。これは先ほど私が申し上げました福祉だとか自然を守るだとかは人間の努力が必要です。それを市場に丸投げすることは過ちだと思います。もう一つ大きな過ちを犯しております。市場というのは資本と労働とかという形で論議されたあのアダムスミスの時代とは全然違います。過剰資本が国境を越えて動き回って、ただ利益だけを求めている。そういう市場に何を任せられるのか、小泉経済の第一原理は市場原理主義です。二つ目にはよく使うスローガンとして、「規制緩和」というのがあります。社会的な規制はカッチリ守り、経済的な規制はできるだけ無くしていこうという最初の総論の段階ではそれほど誤った考え方では無かった。ところが「改革なければ成長なし」と言い始めてから、大企業のための規制緩和になってしまった。大企業が権力を持つことを自由にする、これを規制緩和という風な形になってしまた。普通は自由という言葉は権力からの自由なんです。ところが権力への自由という格好で、規制緩和の問題を論議するようになりました。その結果、どこでも、なんでも、どの分野でも自由競争という格好になってきた。経済学の論理からいって、大企業と小企業が対等に競争できるなどあり得ないわけです。もう一つは「官から民へ」とか「大きな政府から小さな政府」という言葉をよく使っています。日本は決して大きな政府ではありません。人口あたりの地方、中央の公務員の数から言っても、相対的には小さな政府です。何が大きいかというと借金が大きな政府です。借金が大きな政府というのをごまかしています。その借金はいつ誰のために作った借金か、それはバブルの時の企業を助ける為にわずかGNPを1%上げるために、100兆円も使っているんです。俺は世界の借金王だといった総理がいます。なぜそんなことをしているのか、それは企業社会が崩壊するのを防ぐためと称して個人の家計部門にその負担を担わせようという政策だったわけです。しかし、個人の家計部門は簡単に証券市場に流れませんでした。そうすると国は国債を発行し個人の家計から金をとっていった。あるいはゼロ金利という格好で200何兆円を個人の家計部門から企業部門に移しました。今、公務員の数を減らすとか給料を下げるとかという格好で、国民の目をそちらに向けようとしています。先ほどの、市場原理主義の立場をとっている人は役員は目の敵です。修正資本主義の牙城は官僚にある。そういう風に思っている人たちです。私から見れば、何か怨恨で、やっているような感じを受けます。いま、日本の資本主義はアメリカ型に変わっていくのが当たり前だという世論が作られ、国もマスコミもそれに乗ってしまっています。まだまだ近代化が足りない、まだまだ改革が足りない、リストラすればもっと儲かる体質になるという見方に国民を誘導しました。私は反米主義者ではございません。基本的に価値観が違うということをはっきり言っているわけです。アメリカ型の覇権型のアングロサクソン型の資本主義にもし日本がなったら一位のアメリカを追い抜くことでしか生き残れない。そういうことを本当に覚悟しているのか、今二位の日本は覇権型になれば、必ずやぶつかることは決まっています。グローバリズムという言葉は日本の資本主義の型を変えて、外資が自由に入っていける形にするためのアメリカの戦略用語です。それが正しいとか正しくないとかという問題とは全く違います。ここで、戦争している国と、平和憲法を持っている国の価値観は違うということ、経済における基本的な価値観が違いますとはっきり言うべきです。
改憲を阻止する国民の出番のとき
いま憲法九条の旗はボロボロになっている状況ですが、国民はそれを握って離さない。一番基本は憲法にあり、憲法九条を変えるか変えないかという問題になるわけです。憲法である以上、国民投票があります。国民が憲法改定をノーと言った場合、今までの保守政党、今までの日本の支配政党の文脈も変わらざるを得なくなる。勿論、日中関係も変わります。そしてアメリカの戦略が変わらざるを得ないということは当前です。世界二位の国がはっきりノーと言ったら、アメリカの国際戦略も変わります。日米関係も変わります。いくら優秀な外交官でも、いまの従属状況にある日米関係を外交交渉で変えることは難しいと思います。しかし、国民投票で国民がノーといったら、その日から変わってしまいます。それだけに、いま極めて大きな世界史的な事柄に我々は当面しています。国民の出番が来たんです。これほど大きな世界史的な変革に国民の出番として臨めるというのは私たちとしては、私にとっては長生きしていただけのことはあった、いい死に場所を貰えたという風に思っております。明らかにこれほど国民の出番がはっきりした問題はありません。しかも、それは世界史を変えられる。
皆さん方はそれぞれのお立場でどうやって市民のために仕事をするかということを日夜考えておられると思いますが、こんなに大きな世界史的なことが目の前に現れて来ている、そういう時期なんだと考えていただいてこれからもご努力願いたいと思います。私自身も本当にいいチャンスを得たと、内心は極めて喜んでおります。よしやってやろうという感じでございます。
経済界は憲法改定のお先棒を担いでいるじゃないかと、お前は経済界におって、それで大丈夫なのかという質問が会場からもよく出ます。しかし、私は先ほどいいました様に戦争を起こすのも人間なら、それを許さないで止めることが出来るのも人間、その座標軸は丁度、いま私が持ち続けて来られたということに関して一番いい時期に出会えたという感じでおります。率直にいいまして、経済界で孤立なんかしておりません。いいたい経済人はいくらでもいいるんですが、言えないだけなんです。これは経済界の中のヒーラルキーで経済界の中にはデモクラシーなんかあり得ません。一人一票ではないんです。トヨタが10万票ならトヨタの修理工場は1票、それぐらいの違いはあります。自分たちの社員の顔を思い浮かべれば、明日からトヨタに出入り差し止めだと言われたら、それはその社員の顔を思い浮かべて、これは誰かに言って貰った方がいいなと私に対してはもっと言え、もっと言えといいます。自分は言わない。だから国民投票というのは怖いんです。国民投票になれば一人一人が1票なんですよ。そこでわれわれは十分勝負出来るという風に確信しております。
どうもご静聴ありがとうございました。 (文責 編集部
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